松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

『FDの実践的課題解決のための重層的アプローチ(大学教育学会課題研究報告書(2012~2014年度))』(2015年12月1日)(研究代表者:佐藤浩章)を拝読した感想①―国立大学職員と私立大学職員の,職務意識上の差異とはなんだろうか?―

会員には届いているであろう標記の報告書を,遅ればせながら読了した。
私はこの報告書について何ら有益なコメントを残せる立場にはないのだが,最後に掲載されている総括座談会「これまで10年のFDとこれから10年のFD」に職員とFDのかかわり方についてさまざまな記載があり,関心をもったので,不遜ながら以下に感想めいたものを記しておきたい*1
なお,参加者については,以下のとおり記載されており,引用される際の発言者の姓はこちらに基づく(所属は2015年2月14日当時)。

井上史子(帝京大学),沖裕貴(立命館大学),加藤かおり(新潟大学),佐藤浩章(大阪大学),近田政博(神戸大学),山内尚子京都産業大学),山田剛史(愛媛大学

また,赤字部分は引用者による。一度に書くと長くなってしまうので,何回かにわけて書く。
さらに,内容については全責任は私にある。一部を引用するので,全体から見て適切かどうかはわからない。
そういった点については,私の責任ということでご容赦ください。
全文を読みたい方は,会員になれば読めると思います。

FD推進における職員の役割

まずは,FD推進において職員がどのような役割が果たすのか,について議論されている。
いくつかの論点があるのだが,面白かったのは,私立大学と国立大学では,前者の方が職員が積極的で,機能しやすいのではないか,という議論である。
たとえば,次のようである。

佐藤:その時は,今山田さんが言ったけど,職員,アドミニストレータたちと,どれだけ上手くやるかだと思うんです.特に国立大学はその辺の連携がすごく弱いんじゃないかと思うんですよね.阪大に来てから,本当にそのあたりが,上手く機能していない.色々相談すると,「何でそんなに,私たちに聞いてくるんですか,決めてください.私達は教員が決めたことをやるだけですから」って言われてびっくりしました.
加藤:あー,わかる.うちでもそう言う.どういうふうに進めるかを決めて欲しいのに,決まったプランを持ってきてください.それを拡めるのはやりますみたいな.
佐藤:もちろん,最終的には管理職とか責任ある人が決めるんでしょうけども,でもその決断に至るまでは色んな材料も必要なはずなんですが.でもそれを差し出すと,なんかあまり嬉しくないみたいな感じが…….
加藤:そう,そこを一緒に作っていくというような姿勢はない.
佐藤:そのあたり,私立大学は違うんじゃないですか?
山内:違うと思います.
近田:でも立命館は,教員と職員の文化が別々に別れてるっていう話も聴いたことはありますけど,そうではないですか?
沖:あーそうですか.いや,私自身はそうではなくて,もう渾然一体としてると言っていいと思うし,むしろ職員優位だと思いますね.でも,教職協働が行き過ぎると,官僚になってしまいますわね.
近田:そうですね.
沖:これは,余計よくないと思います.だからその前にプロフェッショナルになっていただいて,彼らがプロフェッショナルとして大学を動かすようになっていかないと,大学は変な方向に動いてしまう.何かの委員になった素人の教員では,専門性を十二分に備えた職員に対してモノが言えないんですよ.政治家と官僚の関係と全く同じですね.その状態に今うちはあると思います.
佐藤:京産大はどういう感じですか?
山内:職員が色々データを先生に出して,「こういう感じですけど,どうですか」っていう問題提案型ですね.先生と職員で議論をして,最終的には管理職が決定するっていう感じです.

国立大学職員と私立大学職員に,意識の違いというものは,本当にあるのか?

この問題については,「大学の組織文化による」「上司による」「その人による」といった身もふたもないことが言えなくもない。
たとえば佐藤先生も,愛媛大学時代はより職員の積極的な姿勢をいうものを見てこられたのではなかろうか。
また,山内さんが在籍される京都産業大学は,私の目から見ても情熱的な職員が多いように感じられる。
ただそれはあくまでも外部から見た場合であって,実際問題内部の視点から見てば,微妙なケースというものは存在しうると考えるのが妥当であろう。
しかしながら,その一方で,大学の組織文化というものの差はあるし,特に国立か,私立かという設置者による違いは,私自身ふだんの仕事で絶対的に存在するな,感じているところである。
誤解を恐れずにいえば,国立大学の職員には,私など遠く及ばないほど優秀な方がたくさんいらっしゃるにもかかわらず,その能力に見合った仕事が本当に与えられているのであろうか?という問題意識をもっている。
以下では,あくまでも自身の経験に基づいたことではあるが,卑近な例で感じてきたことを記してみたい。

たとえば,「陪席」という仕組み

「陪席」という仕組みは一般的なのだろうか。
少なくとも私の勤務先にはない。昔はあったのかもしれないが,今はないし,私が入職した2008年当時からない。
イレギュラーな存在としてあるのは,特定の論点に対して意見を求める場合に時々お願いする,オブザーバーだけであって,教員だろうが職員だろうが同じテーブルに着く。
ところが,おそらくは多くの国立大学ではそうではない。
職員は「陪席」といって少し離れたところに机を置き,事務的な説明を行ったり,説明を求められたときに話すに留まる。
率直にいって,私はこの仕組みのことを「なんかイヤだな」と思っている。誤解を恐れずに言えば,「気持ち悪いな」と思っている。
そのことを初めて実感したのが,兵庫教育大学を代表校とする以下の事業の会議体においてである。
www.hyogo-u.ac.jp
私はこの事業のカリキュラム編成を検討するワーキングにおいて,連携校が提供する委員としての役割をいただいているのだが,当初より,自分が「委員席」に座り,他大学の職員が「陪席」している状態にすごい違和感を覚えていた。
「陪席」という仕組みには,身分の違いを焦点化したり,参加人数を増やす非効率な装置として働いたりする等して,あまり前向きなメリットを見いだせない。
また,私がこの委員を務めているのは,同僚たる教員のオファーによる。
「委員が少ないと,都合がつかないとき困るから,教員は2人委員になるけど,君も入っといて」といった程度の,気楽なものである。
これを私立大学全体に一般化できないのは当然であるが,少なくとも自分の周辺にはそうした気楽な空気があるし,一定の能力が認められれば,誰でも身分ではなく仕事ベースの議論に入るのが当然,ということは言えるのではないかと思う。
そうしたときに,「いや,この仕事は先生方じゃないと…」といった本質とは関係ない身分論に話をもっていってしまうと,本質である仕事が全然進まなくなってしまうだろう。

国立大学でツラい思いをしている方は,ぜひ私立大学へ

これはいつも思っていることだが,国立大学でうまく力を発揮できていないなあと感じている職員の方は,私立大学に転職されればいいのではないか。
やっぱり,国立大学ではその性格や歴史上,仕事がやや官僚的になってしまいがちなのも仕方ないような気もする。
中でも教学系のことをやりたい方は,私立大学の方がたぶんやりやすい。
私立大学の場合は,学生が集まらなければ潰れてしまう,という危機感がある。
一方国立大学の危機感というのは,潰れてしまうというところにはおそらくなくて,対文部科学省というか,国のお金をいかにとってくるか,というところに注力せざるをえないのではないか。
この結果として,教学系よりも管理系に人数が割かれたり,優秀な方に限って管理系から動けなかったり,といった現象が発生するのではないか。
なので,学生をどう伸ばすかとか,教育とか学習成果というものは,「国からどうお金をとってくるか」という文脈を越えたところに位置づけられることが,本当の意味では難しいのではないか,と思う。
つまり,この報告書で指摘されている,国立大学職員と私立大学職員の意識の差というのは,環境や条件によるところが,あまりにも大きすぎるのではないかなあと感じる。
私自身も,国立大学が最初の勤務先だったら,先生に「決めてください」と言うようになっていたかもしれない。

環境は人を形作るので…

やや冗長に,よくわからないことを書き連ねてしまった。
特に国立大学関係者からの批判をお待ちしたい。
前述したように,国立大学の職員は私など遥かに及ばないほど能力の高い方が多い。
一方で,環境というのはその人を形作ってしまう。
せっかくもっていた能力も,発揮する機会がない中で何年か経ってしまってたら,一方でチャレンジングな仕事をしていた場合と比較したときに,その損失というのは計り知れない。
この報告書にあるように,まあ仮にFDという分野で何らかの相談を受けた場合に,同僚や上司や,色々と周りのことが気になるかもしれないし,「これは自分の仕事なのだろうか」ということを思うかもしれないけれども,とりあえずそういうことは抜きにして,「面白そうかどうか」で考えてはどうか,と思うのである。

*1:引用元はすべて,標記報告書のpp.93-121.