松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

山本眞一著『大学事務職員のための高等教育システム論―より良い大学経営専門職となるために』(東信堂)を読了

標記の本を再読しました。
ご存じの方も多いかと思います。
読みやすいので、おすすめです。
どのくらい読みやすいかというと、1時間程度で読み終えることができるほどです。
山本先生がいつも言及される「大学経営人材としての職員」論のみならず、我が国の高等教育の歴史や状況がわかりやすくまとめられているので、今年大学職員になったばかりの人にもおすすめです。
印象に残った箇所をいくつか。太字はすべて私です。

読者の皆さんの大学では、職員は張り切って仕事をしているでしょうか。またその際、大学経営に関る重要な仕事をどの程度まかされているでしょうか。大事なことは皆、教授や准教授などの「先生方」が決め、あるいはその際教授会決定だと言われて、事務的な後始末だけ押し付けられたことはありませんか。教授会や委員会に先生方と同じメイン・テーブルに座っていますか。席の後ろの方から、議事録を読み上げたり配付資料の確認だけのために発言したりすることで満足してはいませんか。訪問者を大学に迎えるにあたって手違いがあって、先生から段取りが悪いと叱られたことはありませんか。あるいは逆に、若い先生が出してきた何かの申請書類について、書式と違っていますと言って冷たく突き返したことはありませんか。教授会で説明を求められたとき、文科省ではこのような方針のようです、と言って先生方が知らない情報を自分は知っていると密かに優越感を覚えたことはありませんか。

本学の場合、教員とは違うテーブルに座り、後ろから声をかけるみたいな会議の状態はないですね。
なので、連携事業で国立大学の会議に出席させていただいたときは、本当にそういう光景になっていて非常に驚きました。こういうのを「陪席」と言います。
特にそのときは自分はメイン・テーブルに委員として座っており、「陪席」に他大学の大先輩の職員が座っていたりしたので、大変居心地が悪かったのを覚えています。
ここのところで大事なのは、「あるいは逆に」のあとだとも思います。職員が教員に「使われる」ことが批判的に言及されることはあっても、その逆はあまりありません。
でも現実には上記のようなことがあります。

こうした状態を山本先生は以下のように形容されています。

これらのことの前半部分は、皆さん方職員が教員に従属した立場であること、後半部分は、皆さんがその対抗手段として規則や官庁情報に頼って教員を管理しようとする立場であることを示しています。しかし、私はこの両方とも、これからの大学経営にとってマイナスにこそなれプラスになるような話しでは決してないと思います。

まったくそのとおりですね。

最後に以下の部分です。

私が嫌いな言葉の一つの、教員が無意識に発する「ジム」というのがあります。「ジム」というのはもちろん「事務」のことですが、事務作業を指すだけではなく、事務職員あるいは事務職員の集団を指して使う言葉であることは、皆さんもご存知のことと思います。その「ジム」の向こうに何が見えるでしょうか。おそらく皆さん方一人一人の顔はこの言葉からは見えてきません。集団の中に埋没した個性のない事務職員、何と心の通わない言葉でしょうか。私は、教員のことを「キョウイク」とか「ケンキュウ」と呼ぶのがおかしいのと同様、職員のことを「ジム」を呼んでははらない、これを「不快語」の一つだと考えています。したがって私は自分では使わないし、折あるごとに皆さんにも申し上げています。そして私自身は、事務職員のことを「○○さん」と呼ぶように務めていますし、集団としての事務職員には、「事務局」とか「事務室」というような呼び方をしています。しかしそれにも関らず、事務職員の中でもこの言葉を使っているのを見ると、本当に悲しい気持ちになります。この本を読まれた皆さんは、ぜひ、この不快語を追放して職員の個性を回復してください。またそのためには、皆さんも例えば電話を受けたときは、「○○係の△△です」というように個人名を名乗るようにいたしましょう。

山本先生のご指摘はそのとおりなんですが、実際には「ジム」と無個性にまとめて捉えられた方が楽なんですよね。
個人名で勝負するということは、勇気のいることです。それなりの実力がやっぱり必要です。

夏に先生の集中講義を受けられるのが楽しみです。