続きです。
全く興味のない方にとっては全然面白くないかもしれません。すみません。
でもこのブログ、自分のためにやってるんです。だからご容赦ください。
日本の学校研究でなぜ個々の学校というよりもむしろ全体にかかわる議論ばかり進むのか、という重要な指摘がなされています。
長いですが引用させてください。赤字は引用者です。
個々の学校ごとの違いがどこから生じるのかということは,実際にその学校での教育をどのように経営(management)していくのかという実践とも結びついて,学校研究の重要な問題だと考えられるが,一般世論も研究者も,そういった学校ごとの違いにはあまり目を向けずに,学校教育総体に対して一般論を展開する傾向が強い。その理由としては,次のようなことが考えられる。
第1に,学校の‟病理”的事象に対しては,一般に世論は情動的に反応しやすく,マスコミ報道が学校の‟異常”な問題をセンセーショナルに取り上げて,類似の問題現象を次々に報道すれば,すべての学校が同じように申告な状況にある,と受け止められてしまい,過度の一般化が生じやすい。
第2に,わが国の中央集権的な教育制度のもとでは,学校教育は画一的な性格が強いので,地域や学校ごとの違いはそれほど目立たず,それだけに個別の相違性への関心も低い。
第3に,教育研究においても,学校ごとの相違に関連する概念があまりない。もちろん,小・中・高校という学校段階別や,普通科・職業科といった学校種別,あるいは過疎・過密地域別の学校とか,偏差値尺度による学校差などの比較は行われても,個々の学校の経営特性に着目するような学校ごとの相違についての関心はそれほど強くない。「校風」も含めて「学校風土」という用語があるけれども,どちらかといえば学校という組織集団そのものが一般的にもつ「学校文化」の一環として使われることが多く,個別学校の違いが意識され強調されることは少ない。
第4に,学校ごとの相違に関連する概念に不在に関連して,学校調査の方法論的な特質がある。つまり、学校教育に関する従来の調査は一般的に,一定の問題をテーマとして学校の大量サンプリングによる量的データが収集されることがほとんどで,それらを学校段階別・学校種別・地域別に比較しても,個別学校ごとの比較は展開してこなかった。ただし,最近関心を集めるようになった参与観察やエスノグラフィックな方法は,個別の学校を全体的に把握しようとする意図を含んでいる。
特に納得感が強いのが、第2の理由です。
大学で働いていて(あるいは大学で教職課程を担当していて)、わが国の学校教育制度が多分に中央集権的であるということはいつも実感しています。
しかも、そのことは、必ずしも多様性が捨象されていることを意味していません。
地域や学校(大学)によってさまざまな多様性があるのに、無視されているか、あるいは中央集権的に検討された一定のフレームに基づいてあてはめられているか、のどちらかになることが多いという気がしています。
さらに今津先生は、こうした多様性を無視する問題点について次のように指摘されます。
日本の学校教育の画一性が高いことはいまさらいうまでもないが,それでも個々の学校によって違いが認められる。このわずかの違いに注目することが,学校変革を日常活動のなかで進めていくための具体的な手掛かりを得ることになる。かりに,こうした違いを無視すれば,学校改革はすべて制度改革に求められてしまうことになり,それではかえって,学校教育の画一性をより完璧なものにしてしまう恐れがある。
この指摘にはなるほどと唸って首肯したのですが、よく考えるとこれは学校教育の画一性を歓迎しない(多様性を望む)立場からのご意見だなと。
もしも学校教育の画一性を歓迎する(多様性を望まない)立場に依拠すれば、むしろ学校改革が制度改革のみに求められることは喜ぶべきことになるなと。
そういうことを感じました。
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