松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

今井むつみ著『学びとは何かーー〈探究人〉になるために』(岩波新書)を読了

標記の本を読了した。この本はすごい。
筆者は認知科学言語心理学の研究者で,「学ぶとはどういうことか」ということを,きわめてわかりやすく解説している。
前段では,「そもそも知識とは何か」という問いから始まり,記憶とはどう違うのか,知識の体系はどうなっているのか,といったことについて,主に子どもが母語を習得する過程を通じて解説する。
後段では,前段で示された「知識とは何か」を前提として,それらを極めるにはどうすればよいのか,が解説されている。
端的にいえば,熟達者の最大の特徴は臨機応変であること,熟達者から超一流になるためには,臨機応変の延長線上の創造性があることが示されている。
少し長くなってしまうが,非常に印象的だったので引用してみたい。
まず熟達者についてである(pp.116-117)。

ただちに本質を見抜く力、臨機応変な応用力、普通の人には見えないものを見分ける識別力と、いま目の前には見えないモノ、コトの究極の姿を思い浮かべる審美眼。このような能力の背後にあり、すぐれた判断や行動を可能にしている心の中の判断基準を認知科学では「心的表象」という。この心的表象をより洗練された、よりよいものに育てていくことが熟達の過程なのである。

次に,超一流についてである(pp.199-200.)。

 第4章に書いたことの繰り返しになるが、一流になる人々は、どういうことができるようになりたいのか、一流のパフォーマンスは何なのかを具体的にイメージできる。つまり、自分の中で理想とするパフォーマンスが心の眼で「見える」。そして、そこに向かって自分が何をすべきなのかを考えることができる人々なのである。さらにそれを突き詰めると、的確な目標を持てるということは、
 ●その分野の超一流の人のパフォーマンスがどのようなものなのかを理解できる。
 ●いまの自分がどのくらいのレベルにあって、超一流の人たちとどのくらい隔たりがあるかわかる。
 ●その隔たりを埋めるためになにをしたらよいのかが具体的にイメージできる。
ということだ。自分が超一流になり、自分より上の人がほとんどいなくなっても、自分の中で、いまよりももっと上にいる自分、目指すべきパフォーマンスがイメージできる。自分が(そして他の人も)まだ到達していない地点が見え、そこに至る道筋が見える。それが超一流の熟達者と一流の熟達者の違いである。ここでいう「目指すべきパフォーマンス」や「そこに到達するための具体的な道筋や方策」が見えるようになるというのは、その分野の学習での多大な経験と深い知識が要求されることだ。

「超一流と一流の違い」などと言われるともはやわけがわからない部分もあるが(笑),こういったことについて科学的に分析されている,しかも読みやすい新書というのは大変貴重なように思う。
ひょっとすると専門の科学者の世界では当たり前のことなのかもしれないが,普通の人がそういうところにアクセスするのは難しい。
また一般的には,このような話は「才能」「センス」「努力」といったふわっとした言葉だけで語られてしまい,科学的な裏付けが無視される傾向にあると感じる。
その双方をつなぎ合わせるという点で,めちゃくちゃ面白かったし,貴重ではないかという感想をもった。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

小川正人著『教育改革のゆくえー国から地方へ』(ちくま新書)を読了

他大学の先生にツイッターでおすすめされて読了した。
帯には,センセーショナルに,「2000年以降、激動の理由 食いモノにされる教育行政」という言葉が踊っている。
本書では,55年体制にあって政府自民党が教育政策をどのように決定してきたのか,文部科学省の組織としての特質はどのようなものか,といったことを導入として,第2章からは,90年代からはじまった
「政治主導」についての解説へと進む。
端的にいえば,従来重視されてきた局を単位とする積み上げ型が旧システムとされ,集権化してゆく過程を描く。
また,そういったマクロな話に止まらず,第3章では義務教育における行財政システムが三位一体改革から受けた影響について,かなり詳細に分析している。
いわゆる地方分権改革については別の書籍で読んだことがあるので,大いに頭に入ってきた。

教育改革のゆくえ ――国から地方へ (ちくま新書 828)

教育改革のゆくえ ――国から地方へ (ちくま新書 828)

チャールズ・E・リンドブロム/エドワード・J・ウッドハウス著,藪野祐三/案浦明子訳『政策形成の過程ー民主主義と公共性』(東京大学出版会)を読了

標記の本を読了した。
本書を読んだ理由は,リンドブロムの提唱した「漸増主義(インクリメンタリズム)」について,基本的な確認をしておきたかったからである。
インクリメンタリズムというのは,端的にいえば政策形成過程において,すべての利害関係者の合意をとりつけることは不可能であるため,「少しの変更を繰り返す」ことにより,政治的に実現可能な決定を重ねていくことを指す。
わかりやすいのは予算で,予算額をちょっとずつ増やすことで改善を重ねる(ことにする)というものである。
このような方法の問題点は,現実解が最重要なので,抜本的な改善は不可能ということである。
まあこれは良いとか悪いとかではない。
それで,インクリメンタリズムは行政学の主要概念のようなのだが,少なくともこの本では中心的に扱われいない(と,自分は感じた)。
政策形成過程に広く焦点をあて,その中の一部のようにしか見えなかった。
このため,当該概念にあたるためには,たぶん英語論文にあたらないといけない。なので,以下にメモを残しておく。

Charles E. Lindblom, "The Science of ` Mudding Through '," Public Administration Review 19 (1959): 79-88


政策形成の過程―民主主義と公共性

政策形成の過程―民主主義と公共性

グレアム・T・アリソン著,宮里政玄訳『決定の本質ーキューバ・ミサイル危機の分析』(中央公論社)を読了

標記の本を読了した。
第2版があるようだったが,ひとまず第1版を読んだ。
結論からいえば,読んだ感想は,難しい!というもの。
主に自分の勉強不足のせいで。世界史の勉強を真面目にしていなかったことが悔やまれる。
キューバ危機の文脈がわからないと,読むのに時間がかかるし,いまいち頭に入ってこない。
構成としては,アリソンの3つのモデル,すなわち,
1.合理的行為者モデル
2.組織過程モデル
3.政府内政治モデル
の3つについて,それぞれモデルの説明と実証分析を行うというもので,わかりやすい。
おそらく本書の示唆で重要なことは,これらのモデルが第1モデルの不足を第2モデルが補い,さらにそのまた不足を第3モデルで補うという形で発展してきたのは事実であるが,どれが一番優位ということはなく,互いに不可分であるというところにあると思う。
リアリティを追求した結果モデルが深化したと。しかしそれは元々のモデルを切り捨てることとは異なっている。
また,そういったモデル間の不可分な関係をおさえた分析が課題であることが,まさに最終章で示されていた。

決定の本質―キューバ・ミサイル危機の分析

決定の本質―キューバ・ミサイル危機の分析

寺沢拓敬著『「日本人と英語」の社会学―な​ぜ英語教育論は誤解だらけなのか」(研究社​)を読了

標記の本を読了した。つらつらと感想をば。

本書では,世の中でまことしやかに信じられている言説,たとえば「日本人は英語下手」とか,「女性は英語好き」であるといったものに対して,データ分析にもとづいて批判的考察を加えている。
「日本人は英語下手」であれば,たしかに日本人の英語力は平均的には低いのは事実であるものの,実は東アジアや南欧と同レベルであることや,「女性は英語好き」であれば,意欲の点では男性と比べて顕著な傾向ではないことなどが実証されている。
本書は2つの点で勉強になった。
1つは,一般的に世の中でよく言われていること,あるいは,所与のものとされがちな近年の政策動向について,批判的な視点を加えるというアプローチの重要性であり,その面白さである。
自分は英語教育や英語をめぐる言説について,そんなにたくさんの興味があるわけではないが,「日本人は英語下手」「女性は英語好き」といった言説は,素人でも「たしかにあるある」と思えるレベルのものである。
その際,まずはその「よく言われていること」を定義によって同定したのち,批判を加えていることが重要であると思われる。
なぜなら,素人でも「たしかにあるある」と思えるレベルのことは,普段なんとなくそう感じている,みたいな話で,曖昧だからである。
それを定義づけしたのち,データによって批判されると,納得感が深まる。
もう1つは,データに基づいた実証である。
全てが2次分析であり,筆者自らが収集したデータはない。それでも,ここまでの検証が可能ということがわかる。
やはり,使うことのできるデータは2次利用する(さらにいえば,2次利用を前提に調査が行われる)ことが,時間的・金銭的コストを節約するのに大切であると実感した。
加えて,本書は統計のわからない人への配慮がなされており,私のような素人でも統計分析の過程がよくわかる。

日本人と英語に関していえば,やはり「英語が必要だ!」と言えば都合の良い勢力が多いと思われるため,このような批判的知見はおもしろい。
また,やや飛躍するが,本書を拝読しながら,「大学で英語を勉強する意味ってなんだろう?」ということを考えていた。
本書の第三部では,「これからの社会人に英語は不可欠」言説が検証されている。これはまあ大学で学習させる場合によく使われる言葉であろうと思う。
結論は,仕事において英語を激しく使う人は,未だせいぜい数%であり,さらにいえば「英語ができると収入が増える」ことも有意とはいえない,効果があったしても限定的です,というものである。
また同時に,「英語の必要性は高学歴者・ホワイトカラー識者・正社員・大企業の社員で特に高くなる」とされている。
ではそうしたときに,威信の低い大学で英語を学ぶ意味ってなんだろう?
就職活動の一貫として英語力をバシバシ鍛えている大学もあると思うが,威信の低い大学で英語力を鍛える→高学歴者に対抗して大企業に就職できる,といった因果関係は成立するだろうか?
そのようなことをつらつら考えていた。

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

2017年度:全私教協第6分科会における尾白専門官との質疑応答(松宮部分)

[【お詫びと御礼】全私教協第6分科会に参加されたみなさまへ - 松宮慎治の憂鬱
標記の件について,私自身の責任において以下のとおり公開します。
こちらに責任の内容はすべて私にありますので,当然ですが,全教教協や文科省にクレームをつけるようなことはなにとぞご海容ください。
ただ,関係者の皆様におかれまして,記載の内容が不適切,あるいは記載すること自体に問題があるといったことがございましたら,ご指摘ください。

確認できたこと

・課程認定基準で配置教員等に変更はない
・イメージ図だけで言えば,「総合的な学習の時間の指導法」は,何らかの科目に含む(≒独立させる必要はない)こともありうる
・相当関係や共通開設は満たされている前提なので,確認はしない
・業績の審査は50名弱の委員で行い,期間も長期とする
・業績審査の対象とする期間は,10年である

質疑の内容

・私は事務職員なので,課程認定の具体的な内容について確認したい。特に,これだけの人数に集まっていただいたので,何かお土産を持ち帰っていただく必要があるという責任を感じている。

①相当関係や共通開設は満たされている前提なので,確認はしない

・近年,通常の課程認定のプロセスでは,「共通開設科目の取扱い」や,学位プログラムとの相当関係が大きなテーマになってきた。再課程認定において,現行の課程をそのまま申請することになると,「共通開設科目の取扱い」を守っていないケースや,学位プログラムとの相当関係が薄いケース等が含まれることが想定される。一方,今回示されている審査方法では,そこまで確認しえないのではないかと思う。これらを確認する手段として,学則や履修規程を提出させる,学位との相当関係を示す書類を提出させる,あるいは一番簡単な方法として,単純に学位の名称と免許教科を対比することもできる。どのようなレベルで確認を行うか,教えて欲しい。(松宮)
→これらについては,既に旧課程で満たされているはずなので,確認はしない。(尾白氏)
→つまり,相当関係等は満たされている前提なので,再課程認定申請のプロセスで再度確認する必要はない,ということか。(松宮)
→そうである。(尾白氏)

②課程認定基準で配置教員等に変更はない

・当初のスケジュールは,施行規則の改正 → コアカリの策定 → 課程認定基準等の改正,という順であった。しかし,現在のスケジュールは,前の2つが逆転するか,ほぼ同時になっている。このことから,課程認定基準には,一定程度コアカリを反映させるものと想定される。そうしたときに,現在のコアカリ(案)は,コアカリというよりも,緩やかな指針のように見える。一方,従来の課程認定基準は,必要専任教員数を始めとして,ミクロな縛りがある。この両者のギャップをどのように埋めるご予定か。(松宮)
→それは,必要専任教員数等に変更があるかということか?(尾白氏)
→そうである。(松宮)
→変更の予定はない。(尾白氏)

③業績の審査は50名弱の委員で行い,期間も長期とする

・通常の課程認定の業績審査では,20-30名弱の委員に担当を割り振って審査しているはずである。一方,今回再課程認定申請を行う課程は,資料にあるとおり10,000を超えており,審査対象を「含むべき事項」の担当業績に限ったとしても,通常の審査プロセスを踏襲しただけではとてもさばききれないだろう。現時点で,どのような方法を予定されているか。具体的には,同じように委員を選定して審査する方法をとるのか。(松宮)
→50名弱の委員を選任し,審査も長期間にわたって行う予定である。(尾白氏)

④業績審査の対象とする期間は,10年である

・今回,総合的な学習の時間の指導法の審査方法について,例外的に10年以上前のものを認めるとあるように,通常の課程認定と同様審査対象の業績は10年以内という理解でよいか。(松宮)
→そうである。(尾白氏)

⑤イメージ図だけで言えば,「総合的な学習の時間の指導法」は,何らかの科目に含む(≒独立させる必要はない)こともありうる

・さきほど,「新設が必要な科目」について,特別支援,総合的な学習の時間の指導法,小学校の外国語を挙げられていた。しかし,見直しのイメージ図を前提とすれば,総合的な学習の時間の指導法は「■」印で「備考において単位数を設定する科目」とはなっていない。このことから,総合的な学習の時間の指導法は,イメージ図を前提とすると,「新設が必要」とまでは言えないのではないか。つまり,何らかの科目に含むことも可能なはずではないか。(松宮)
→そういうこともありうる。(尾白氏)

要望

⑥芸術,音楽系の業績評価について

・芸術や音楽系の業績評価方法について,要望がある。芸術等の分野では,作品を作ること自体が業績であるという文化がある。したがって,ペーパーの業績が馴染まないという意見をよく聞く。審査にあたって,分野ごとに一定の共通性は必要かと思うが,芸術や音楽のように明らかに独自の文化をもつ領域については,別途業績の評価をご検討いただければありがたい。これは要望である。(松宮)
→(尾白氏,頷く)


※上記の質問を検討するにあたり,2名の方にご助言をお願いしました。また全私教協教職課程部会の皆様のご協力で,こうした環境を得られました。この場を借りて御礼申し上げます。

土井進著『テキスト 中等教育実習「事前・事後指導」―教育実習​で成長するために―』(ジダイ社)を読了

標記の本を読了した。
事前・事後指導をどのように充実させるかについて悩んでいた自分にとっては,参考になった。
勤務先では,事前指導は3日間の集中講義を行い,徹底的に行っていると言っていいと思う。
しかし,事後指導については実践演習も始まったことから,扱いが難しかった。
学びを振り返り,共有させることが大切だとしたときに,いかなる視点で省察させるかが示されている点が特に参考になった(p.135)。

ⅰ)実習校に関して
 ・学校経営・学級経営で学んだこと
ⅱ)学習指導に関して
 ・教材研究・指導案の作成で学んだこと
 ・示範授業を参観して学んだこと
 ・研究授業を実践して学んだこと
ⅲ)教師に関して
 ・教員の職務について学んだこと
 ・指導教員から学んだこと
ⅳ)生徒理解に関して
 ・生徒との信頼関係づくりについて学んだこと
 ・生徒から学んだこと