松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

リスク=危険性ではない

人々がリスクという言葉を使うときに、どうもそこには「危険性」という意味内容しか含まれていないのではないかと思います。
しかしながら、「危険性」というのはリスクという言葉の半分に過ぎないというのが私の考えです。
では私の中でリスクを説明する適切な言葉は何だと考えているかというと、「予測不可能性」です。
「予測不可能性」は、2つの意味内容を含んでいます。一つは、「良くないことになる可能性」、もう一つは「悪いことになってしまう可能性」です。
リスクを「危険性」と訳してしまった場合には、後者、つまり「悪いことになってしまう可能性」しか視野に入っていません。

何かに挑戦しようとするとき、そこには必ずリスクがあります。でも、リスクというのはあくまでも「予測不可能性」なので、その挑戦の結果、物事が良くなるか悪くなるかは、挑戦する段階ではわかりません。
何か新しいことをしようとするとき、「リスクがあるのでやめましょう」と考えたとします。
たしかに、「悪いことになってしまう可能性」は失われました。でも、「良くないことになる可能性」も、同時に失われるのです。

私は、なんでもかんでもリスクを恐れず挑戦すべき、とは思いません。
時には戦略的にやめておくということも必要だと考えています。
でも、リスクを考えてあえて挑戦しなかった、新しいことをしないでおいた、としたときには、「悪いことになってしまう可能性」と同時に、「良くないことになる可能性」も併せて放棄したことに、自覚的になっておかなければなりません。

それが自分自身のことであるならば、挑戦しようがしまいが自分の問題です。
しかしながら、他人の挑戦に「やめておいた方がいい」というアドバイスをするということは、挑戦の結果「良くないことになる可能性」をその人の未来から奪ってしまう、ということでもあります。

「やめておいた方がいいんじゃないですか」と言うよりも、「どうなるかわからないけど、とりあえずやってみましょう」と言うことの方が難しいです。
なぜなら、「とりあえずやってみましょう」と言ってしまうと、結果責任を部分的に負わざるを得なくなるからです。
「自分がとりあえずやろうと言ったので彼はやった。でも結果的に失敗した」という事実が厳然と残ります。
「やめておいた方がいいんじゃないですか」と言っておけば、少なくとも「悪いことになってしまう可能性」はないので、自分が責任を負うことはありません。
よって、逆説的ですが、「どうなるかわからないけど、とりあえずやってみましょう」と言ってくれる人を、私は非常にありがたいと思っています。
言ってみればそれは、大げさに言えば、私のために一部自分を削ってもいい、という発想ですからね。
そして、自分もそうありたいと感じています。

はっきりしていることは、結果というのは、「やってみなければわからない」ということです。
挑戦してもしなくても、「やっていない状態で結果としてどうなるかなんて、絶対に予測できない」ということは謙虚に自覚しておいた方がいいと考えています。