松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

学生の成長が、自分の器におさまってしまうという問題

私は学務系の部門にずっといたこともあって、自分の仕事はいかに学生の可能性を伸ばすかというところにあると思っている。
そうした時に、標記のような限界を覚えることがある。
不安と言い換えてもいいかもしれない。

学生の成長は、結局自分の器の範囲に規定されざるをえないかもしれないという問題。
この問題は根深いが、解決の方法は2つしかない。
1つは、この問題を所与のものとして諦めて、自分の器をガシガシ広げていくのと。
もう1つは、自分の言動において、意図的に器を越えていくことを意識することである。
1つめはわかりやすい。
学生の成長が自分の器に規定されるなら、ひたすら自分の器を広げる努力をすればいい。
しかしながら、これには大きな問題がある。
それは自分が凡人だということだ。
凡人なので、畢竟器の広げ方もしょぼくなる。
ちょっとずつしか広がらない。
これでは申し訳ない。もっとすごい人が担当だったら、彼らはもっと伸びるかもしれないのに。
とはいえ、今さら自分が凡人であることは変えようがない。
凡人は凡人なりにやるしかない。
さて、ここで見えてくる2つ目の選択肢が、「自分の器を積極的に越える言動をとる」ということだ。
何かをやろうと思ったとき、「危ないな」「できそうもないな」「不安だからやめておこうかな」といったブレーキがかかる。
このブレーキを、意図的に外すということを試みている。
自分の思う「こっから先は無理だな」というラインを、意識して越えることにしている。
具体的には、今しようとしている行為について、それは危ないとか、できそうもないとか思うのは、お前が所詮凡人だからであって、仮に天才だったらいとも簡単に実行するぞ、といった罵声を自分に浴びせるのである。
このことによって、自分の器は全然変わらないけど、無意識に感じている限界を意図的に越えることができる。
結果として、あたかも器もその分大きくなったかのような効果を得ることができる。

ただし、これは諸刃の剣だといえよう。
なにしろ、どうせ自分の器の大きさは変わっていないのだから、目測を誤って失敗してしまう可能性もある。
むしろ、そうなってしまうことの方が多いかもしれない。
だから、やりすぎるのはよくない。
ほどほどにしておかないといけない。
したがって、やはり凡人らしく自分の器を少しずつ広げるということは、一方で地道に続けねばならないのである。