松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

マージが難しい私立大学の一覧【2018年10月8日初版作成】

私立大学の分析をする中で,異なるデータ(たとえば,偏差値と定員数等)や,複数年のデータ(たとえば,2016年と2017年)を結合しようとするときに,しばしば困る大学群がある。
自分用のメモとして,以下にその一覧を置いておく。

名前が異なることがある大学

慶應義塾大学 ⇔ 慶応義塾大学
國學院大學国学院大学
沖繩国際大学沖縄国際大学
④大阪河﨑リハビリテーション大学 ⇔ 大阪河崎リハビリテーション大学
⑤大正大學 ⇔ 大正大学
⑥了德寺大学 ⇔ 了徳寺大学

名称が変更された大学

①東北薬科大学
・2016年4月,医学部を開設したことにより,同年「東北医科薬科大学」に名称変更
東京純心大学
・2015年4月,「東京純心大学」に名称変更
日本橋学館大学
・2015年4月,「開智国際大学」に名称変更
ヤマザキ学園大学
・2018年4月,「ヤマザキ動物看護大学」に名称変更
鈴鹿国際大学
・2015年4月,「鈴鹿大学」に名称変更
近大姫路大学
・2016年4月,「姫路大学」に名称変更

公立大学法人化した大学

山口東京理科大学
・2016年4月,公立大学法人化し,「山陽小野田市立山口東京理科大学」に名称変更
長野大学
・2017年4月,公立大学法人化(名称はそのまま)
成美大学
・2016年4月,公立大学法人化し,「福知山公立大学」に名称変更

廃止された大学

創造学園大学
・2013年に廃止
東京女学館大学
・2017年に廃止
久我山大学
・1950年に廃止
浜松大学
・2013年4月,常葉大学(旧:常葉学園大学)に統合(=常葉大学浜松キャンパスとなる)
・2016年3月に閉学
富士常葉大学
・2013年4月,常葉大学(旧:常葉学園大学)に統合
・2018年3月に閉学
愛知新城大谷大学
・2010年度から募集停止
・2013年3月に閉学
三重中京大学
・2013年12月に閉学
聖トマス大学
・2015年3月に閉学
神戸夙川学院大学
・2015年8月に廃止
神戸ファッション造形大学
・2013年に閉学
聖母大学
・2014年6月に廃止
福岡医療福祉大学
・2014年3月に廃止
映画専門大学院大学
・2013年に廃止
LCA大学院大学
・2010年度末に廃止

初版作成:2018年10月8日

大学で業務改善を試みたときに言われがちなこと(と,それへの反論)

①そんなことはできないと聞いた!

今,こうこうこうすれば,こうできるのでは,ということを調べてお示ししています。
前はできなかったもしれませんが,今はできるようになったのかもしれません。
状況は変わるものだから,前の状況が今も続いているとは限りません。
ですので,いつでもゼロベースで再考することが必要ではないかと思います。

②今までのやり方を否定するのか!

否定というより,批判的に考えています。
改善は批判的に考えることからしか生まれません。
「本当にこの方法で良いのだろうか?」と率直に思うことが,「もっとこうすればうまくいくのでは」という前向きな提案に繋がります。
出発点はいつでも批判的思考であり,これは大学で学生に促さねばならぬ学習の一つでもあります。

③以前からこうしている!

これは事実の提示であって,反論ではありません。
以前からこうしている!だからこれからも続けよう!という発想ですと,極端に言えば,組織ぐるみのリコール隠しをしていた某クルマメーカーのようになってしまう可能性があります。
彼らは監査がくるたびに,書類を倉庫に隠すということを皆でやっていたのです。
普通に考えれば一人くらい,「こんなこと変じゃないか」と思いそうなものですが……
なぜバレたかといえば,隠すことが当たり前になって,横着をして隠す場所を倉庫から個人ロッカーにした者がいたからです。


大学は官僚制であるため,前例踏襲が得意です。
そしてそのことが,永続的な安定に繋がっています。
一方で,官僚制には逆機能もあることを認識しつつ,上手にバランスをとることが必要です。
たとえば,常に上記3つのようなことを言われ続けてしまうと,たとえば中途採用や新卒採用などで入ったばかりの人も,よほど空気を読まない人でなければ萎えてしまい,改善意欲を失います。
このことの責任は,その組織により長く所属している側にあると思います。
したがって,組織により長く所属する側の人間こそが,積極的な(やや無理筋と思われるものまで含んで)改善提案を行う,あるいはそうした提案を受けたときに,頑張って「うん」と言う,といった態度を持つとよいと感じています。

伊藤公一朗(2017)『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社新書)を読了

標記の本を読了した。
本書では,因果関係の導出がそもそも難しいこと,そしてなぜ難しいかという話題を皮切りに,RCT,RDデザイン,集積分析,パネルデータを扱い,最後に上級編への階段を示す「初級編」である。
階段状のデータから因果を描く集積分析って,単なるヒストグラムとどう違うの?という点が今一つわからなかった。
数学的な解説ではなく,タイトルのとおり「思考法」にアプローチしているので,全くデータ分析をしたことがない方にも有用だと思う。

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

中村高康(2018)『暴走する能力主義:教育と現代社会の病理』(ちくま新書)を読了

少し前のことになるが,標記の本を読了した。
本書を貫くテーマは,常に反省的に問い直されるという性質を初めから内包しているという,「メリトクラシー再帰性」であり,与えられる命題は次の5点である(pp.47-48.)。

命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない 【2章】
命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される 【3章】
命題3 メリトクラシーは反省的に常に問い直され,批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシー再帰性) 【4章】
命題4 後期近代ではメリトクラシー再帰性はこれまで以上に高まる 【5章】
命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる論議は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である 【5章】

著者は,メリトクラシー再帰性の高まりの要因を,高学歴化に伴い学校歴そのものに再帰性が立ち上がってきたことと,情報化の2つに求めている。
前者は,たとえるなら,前近代は「無学校」時代→前期近代は「学校」の時代→後期近代は「学校批判」の時代,という変化である(p.213)。
そして人々は,「新しい能力が必要だ」という議論それ自体を渇望してゆく。

最近,いわゆるインフルエンサーが「これからの時代,大学に行くくらいならオンラインサロンに入った方が学ぶことが多い」というコメントをして物議をかもしたが,このような議論はまさに「学校批判」の時代のメリトクラシー再帰性として捉えることができるだろう。
すなわち,本書の枠組みを借りれば,「これからの時代,大学に行くなんて意味ない」というイメージそのものが,世間からは望まれていると言えよう。

暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

働く上では,打率<<(越えられない壁)<<打数

人間の能力の分散はそんなに大きくない。
たとえばプロ野球選手の打率は,低くて2割,高くて3割5分の範囲に収まる。
5割打つバッターは存在しない。
いくらスーパーでも,イチローレベルに留まる。

ところで,2017年までのイチローの打率は,NPB通算で.353,MLB通算で.312である。
しかし実をいうと,イチローの真にすごいところは,打率ではない。
稼働年数が26年と超長期であることにある。
なぜなら,当然のことであるが,1000回打席に立った場合の打率3割と,10回しか打席に立っていないときの打率3割は,価値が全く異なるからである。
すなわち,働く上では打率よりもむしろ,何回打席に立つかが重要であることがわかる。
イチローが積み重ねた打席は26年で14,779回である。
その上での打率3割超えというのは,はっきり言って異常と言うほかない。
そしてその異常さを際立たせているのは,立った打席の数である。

プロ野球選手のような特殊な仕事では,何回打席に立つかを自分で選ぶことは難しい。
だが普通の仕事は,打席に立つ回数をある程度自分で選ぶことができる。
1日で1回も打席に立たないこともできるし,10回くらい立つこともできる。
人間の能力はさほど変わらないかもしれないが,打席に立つ回数は大きく違ってくる。
1日1回しか打席に立たない人は,1年で365回打席に立つ。
一方,1日10回打席に立つ人は,1年で3650回打席に立つ。
このとき,後者の人が能力のない人で,打率1割であると考えよう。
1年で生む安打は,365本である。
一方,前者の人は能力が高く,打率4割だとして,1年で有無安打は146本である。
能力のない,打率1割の人の,半分未満の数字である。

以上のように,いくら能力(打率)が高くても,打席に立つ回数が少なければ,打席に立ちまくる能力の低い人に勝つことはできない。
逆に能力的に劣っていても,打席に立つ回数さえ増やせば,能力の高い人に勝つことができる。
そして,人間の能力の分散はそんなに大きくないので,賢くない人は,賢い人のおおむね10倍の努力を目安にすれば,ほぼ勝つことができるだろう。
ここでの打席は,チャレンジのメタファーである。
打率が低ければ,「あいつ,打率低いぜ」と揶揄されることもあるかもしれない。
でも現実に価値を生むのは,安打そのものである。
打率が低かろうが高かろうが,安打を積み重ねればよいのである。

【ネタバレ無し】松岡錠司監督作品『深夜食堂』を鑑賞

標記の映画を鑑賞した。
深夜0:00に開く「めしや」を中心に広がるいくつかのオムニバス。

南風原朝和編(2018)『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』(岩波ブックレット)を読了

今さらながら標記の本を読了した。章立ては次のとおりである。

第1章 英語入試改革の現状と共通テストのゆくえ(南風原朝和
第2章 高校から見た英語入試改革の問題点(宮本久也)
第3章 民間試験の何が問題なのか――CEFR対照表と試験選定の検証より(羽藤由美)
第4章 なぜスピーキング入試で、スピーキング力が落ちるのか(阿部公彦
第5章 高大接続改革の迷走(荒井克弘)

第1章ではまず,英語入試改革のこれまでの流れを整理し,進行中の改革の問題点を指摘する。
ここで指摘されている改革(民間試験)の主な問題点は,(1)高校の学習指導要領と乖離していること(2)試験や採点の質に疑問符がつくこと(3)異なる民間試験を無理に対応づけていること(4)受験にかかるコストが受験者負担であり,経済的・地域的格差を誘発すること,の4点である。
続く第2章では,現職の高等学校長から見た問題点が描かれる。具体的には,(1)高校の学習実態との乖離(2)高校の英語教育の民間志向への変質可能性(3)家庭や居住地域による経済的・地域的格差の捨象(4)高校教育の日程の見直しの必要性(5)大学入試でどのように活用されるかが不透明,の6点である。
第2章の(3)までで示される問題点は,表現こそ違うものの,第1章と全く同じと言っていいであろう。
第3章では,CEFR対照表が文科省によって権威づけられた(だが,文科省自身はその検証をしていない)ことを批判する。
また,対照表そのものが二転三転したということから,官民のどちらが主導したかはともかくとして,対照表の作成過程は単なる「つじつま合わせ」に過ぎず,そのことが国民に隠されていると喝破する。
第4章では,政策の出発点となった「四技能」そのものに疑義が呈される。
英語運用能力の基礎は,「読み」や「書き」といったように厳密に区別することはできないというのである。
第5章では,英語入試改革の背景にある高大接続改革の問題点が解説され,問題点が指摘される。とりわけ,文科省の人事異動によって高大接続改革の主導権が高等教育局ではなく初等中等教育局にわたったこと,記述式問題と英語四技能試験に文科省が過剰に執着したことなどに,踏み込んで疑問を挙げている。

以上のように,本書は英語入試改革の実証的根拠のなさ,もう少し雑駁に言えばいきあたりばったり加減を明確に批判したものである。
「はじめに」で述べられたように,この出版がまさに「緊急企画」であり,混迷に向かう改革の進路を阻みたいという意図を強く感じる。
「瀬戸際で受験生とその予備軍を守れるのは各大学の「使わない」という判断」(p.68)という言葉もあるが,このブックレットが発売されたあと,東京大学のWGがこれら民間試験を不使用とする指針を示した。
これからの成り行きが注目される。
と,他人事のように言っている場合ではない。
正直言って,英語入試改革の趨勢は追えないでいたから,本書の後半にまとめられた年表は非常に助かった。
自身も当事者なのであるから,もう少しよく勉強しなければならない。