松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

いわゆる窓口業務は、学生と接することになるのか?

形式的にはそのとおりだが、実質的にはそうとも言えないというのが、7年間窓口のある部署にいて感じていることである。
学生と接するといっても、意味のある接し方とそうでない接し方があり、どんな接し方を選ぶかは個人の裁量によって変わってくる。
人事的な観点から見れば、私のように学生支援から教務へ、というキャリアをたどると、一貫して学生と接する部署にいるので、さてそろそろ管理系へ異動せようか…という風に検討できるかもしれない。
しかしながら、学生と接するにあたり、単に機械的に形式的に“対応”業務をしているだけでは、その意味合いは薄い。
少なくとも、コストの高い専任職員をそうした形式的な業務に就かせる価値はないであろう。
形式的な業務であれば、その業務を頑張る人のコストの高低にかかわらず、成果は大体一定であると思われるからである。
それならコストの低い人がやった方がいいのは自明である。
これは7年間の自らの業務経験における反省も踏まえて言っている。

とはいえ、形式的かどうか否か、機械的かどうか否かというのは、何をもって判断されるのかという基準が引きにくい。
私が仮説としてもっているのが、「葛藤」がそこにあるかどうか、という物差しである。
やはり人と人との関係なので、真剣にかかわろうと思うとそこには色々な悩み、苦しみ、不安等が生まれる。もちろん、喜びも生まれるが、どちらかというとできればスルーしたいような、ネガティブな要素の方が生じやすいと感じている。
それが葛藤である。
さらに重要なことは、葛藤が自分と学生との双方に生まれているということである。
葛藤というのは1人では生まれない。だから、自分が葛藤を感じているとき、相手である学生もやはり葛藤を覚えていると考えた方がよいであろう。
お互いに葛藤を覚えるというのはどういうことか。
私も、もしかしたら学生から「なんやあいつ」と思われている部分もあるかもしれないということである。
でもそれはきちんとかかわった結果なので、何も思われないよりずっといいのである。

そうした葛藤は、機械的に、形式的にかかわる中では生まれてはこない。
そう考えるので、葛藤の有無が自分のかかわりのレベルを推し量る指標になりうるのではないかと思っている。
どうもこの葛藤がここ1ヶ月ほど減っている気がしたので、昨日は教職の学生のミーティングに出てみた。
するとある学生に、「松宮さん珍しいですね」と2、3回言われた。
もっと見にこいよということかもしれない。
いや、別にそれは考えすぎではあると思うが、互いに何も感じていないのに、このような会話が発生しないのは明らかである。
このように、なにごとも関わりあうと小さいながらも葛藤は生まれるくるのである。