松宮慎治の憂鬱

タイトルは友人が考えたもので,某アニメのことはわかりません。sanjyuumatsu@gmail.com

大学の価値:日本の大学生は,大学の何に対して,学費(授業料+施設設備費)を支払ってきたのか

「理念的価値」or「技術的/道具的価値」?

わたしは,日本の大学生は,4 or 6年間の,「学生生活 + 学位」と,学費(授業料+施設設備費)とを交換してきたのだと理解しています。
つまり,「学生生活 + 学位」の主要な要素は,総体としての「時間」や「空間」であり,授業だけではない,という立場です。
この立場を,ここではいったん,大学の価値を理念的なそれに見出している,と言い換えてみたいと思います(「理念的価値」)。
これとは異なる立場が,あるサービスに対してお金を払っているのだという,経済合理的な考え方です。ここでは,いったん,「技術的/道具的価値」とでも言っておきたいと思います。
もちろん,両者は2項対立ではなく,混じりあうのでしょうが,どちらにより寄っている(きた)かをもとに,考えてみたいと思います。
わたし自身がそう思っている,ということに留まらず,社会的になされてきたと思われる,緩やかな合意までが射程となります。

学費返還要求における,施設設備費

学費返還要求は,日本だけではなく,各国で展開されていました。わたしが最初に見たニュースはアメリカで,その次が韓国でした。日本においては,若干遅れて発生したように思います。
日本的文脈でとても気になったのは,施設設備費がクローズアップされていたことです。
いわく,オンラインで授業が実施されているのはわかる。でも,施設は使用していないのだから,その施設設備費だけは返還してくれないだろうか,というものです。
上記で,「学費(授業料+施設設備費)」と記載しましたが,学生が大学に支払う学習のためのお金について,私立大学ではまとめて学費,国立大学では授業料と呼ぶことが多く,また,施設設備費は国立大学にはあまりないようです。
よって,施設設備費が問題化されたのは,主としてオンライン授業を実施した私立大学ではないかと思います。

特定の費目への着目→「技術的/道具的価値」

施設設備費だけも返還できないのだろうか,という問いに対して,多くの大学は,施設設備費は施設利用料ではなく,維持管理に投入するもので,現在の学生が施設を良い状態で利用できるのも,過去の先輩による施設設備費のたまものだ(だから支払ってほしい),という回答を「見出した」ようです*1
しかしながらわたしは,施設設備費という特定の費目が焦点となり,学生と大学が議論することは,的が外れているのではないか,と考えています。
冒頭の2つの価値に話を戻すと,大学の価値は「技術的/道具的価値」ではなく,「理念的価値」にあると思っているからです。
特定の費目に着目する価値観は,「技術的/道具的価値」です。
換言すれば,
・図書館を使ったからいくら
・部活に入って体育館を使ったからいくら
・少人数教育を受けたからいくら
といった考え方を,人々がしてきただろうか,と思うわけです。
そういう,「技術的/道具的価値観」にもとづく眼差しを,人々はこれまでも大学に向けてきたのでしょうか。
おそらく,そうではないですよね。よくもわるくも人々は,「定額使い放題」に近いイメージをもってきたはずです。

「理念的価値」に軸足があれば,一部返還の正当性がある

にもかかわらず,特定の費目が焦点化されたのは,総体としての「時間」や「空間」が半期分失われ,それが回復不可能だからだと思われます。
その気持ちのやるせなさを,施設設備費という費目を改めて「発見」し,そこにぶつけることで,解消しようとしたのではないでしょうか。
これに対する大学の回答は,理論上は正しくても,学生の問いの背後にあるやるせなさを,ある意味では捨象してしまっていることになる気がします。
また学生の問いも,突然「技術的/道具的価値」に着目したという点で,自らの内面にあるものを正確に表現できているとも感じられません。
ひょっとすると,施設設備費は,両者の利害が一致した時間稼ぎのスケープゴートとして,ちょうど都合がよかったのかもしれない,とすら言えそうです。
わたしは,「理念的価値」に大学の価値の軸足を置けば,「一部を返還すべではないか」という主張は,失われた「時間」「空間」の補填として,むしろ十分正当性があると考えています。
では,何をどの程度返還するのが妥当であるのか,あるいは返還という形が妥当なのか,わたしの中に明確な答えはありません。
でも少なくとも,「技術的/道具的価値」に軸足を置いてしまうと,現象をクリアに描けないと考えに変化はありませんでした。

これからのために,本当は議論した方がよいこと

ところで,失われた「時間」や「空間」が回復不可能になってしまう理由は,日本の社会が,修業年限での卒業(修了)を良しとしているからです。
もしそういった条件がなく,学習そのものが大事だという社会的合意があったならば,単純にはさしあたり休学すれば「質の低い」オンライン授業は避けられます*2
本当なら,学生の学習したいペースにあわせて,ゆっくり卒業する選択も,社会的にもう少し許容されてもよいのではないでしょうか。
それがないから,危機的な状況がさらに息苦しくなっているのではないでしょうか。
すなわち,学位=学校歴であり,それを最短で取得する,という単調なプログラムを良しとする社会は,意外かどうかはともかく,あまりにもこれまで変わらなさすぎたのではないでしょうか。
あるいは,もし「技術的/道具的価値」に軸足を置くとするならば,教育とお金が密接に結びついていく可能性があります。
その場合,良い教育を受けるには,それに値するだけのお金が必要ということになり,進学行動の家計依存がさらに高まってしまうかもしれません(要するに,金持ちしか大学に行けない自己責任社会が,より先鋭化します)。
日本という国家の行く末を考えるにあたり,大学教育はそれでよい,と社会は判断してしまうのでしょうか。

学生であれ教職員であれ,大学という場にかかわっていることに変わりはありません。
そうである以上,たとえほんの少しであっても,自分の目の前のことだけではなく,社会全体との関連でものごとを捉え,論じ,検討する視点が必要ではないでしょうか(むろん,これ自体が「理念的価値」に基礎づけられた発想ですので,「技術的/道具的価値」の立場からは,何を言っているのだという批判は免れないとも思います)。

*1:その他,オンライン対応に資源を投じたので,返還できないという回答もありました。しかしこの理屈だと,完全対面が復活しない限り,施設設備費の妥当性は,価格面から問われ続けることになるでしょう。

*2:もちろん,休学するにあたっても私学では費用を徴収していますので,現実にはこのように簡単ではありませんが。