私が学部を卒業したのが、大阪教育大学教育学部教養学科というところでして、学位は、学士(教養)でした。よく友人同士で、教養はないけど学位は教養(笑)などと言ったのを思い出します。教養とは一体なんでしょうか。教養とリベラルアーツはどう違うのでしょうか。全然わかりません。大学教育学会の課題研究集会では、新しい教養、新しい知のあり方、ということが一つのキーワードになっていました。その中で改めて思ったのが、「ネットによる知の変化」「こういう場に参加できる自分」という2つのことです。
◎ネットによる知の変化
インターネットの発達、これはやっぱりすごく大きな影響を与えていると思います。私の生活では、小学生まではインターネットというものは全くなく、中学生の頃から、電話回線(ダイヤルアップ接続)なるものが家にきて(ピーガガガ、、で繋ぐやつですね)、高校生になったくらいから、ブロードバンドというものが流通し始めました。ちょうど2000年前後です。この頃は「ITバブル」と呼ばれていました。もはや死語だと思いますが、「情報化社会」なんて言葉もありました。情報が巷にあふれだすことが、いかにも特別だった時代です。高校1年生だった2001年では、私のいたクラスでも一家に1台パソコンがある家庭というのはどちらかといえば少数派で、ましてや自分用のパソコンを持っている人などというのは、完全に「オタク」でした。私も、自分用のは持っていませんでした。大学生になった2004年頃、ブロードバンドが普通になり、ネットというものが相当大衆化したと思われます。この大学生になるときに、初めて自分用にノートパソコンを購入しました。価格は、20万を超えていた記憶があります……。このような時代を生きてきたので、いわゆるデジタル・ネイティブとは少し違って、ネットというものがなかった時代からある時代へ、その変遷も含めて、多感な時期の生活に根差して見てきました。そうした観点から見ると、この間、知の変化に関連して、大きく2つの波があったように思います。
①情報は守るものではなく、公開していくもの
②知識は得るものではなく、峻別して組み合わせるもの
①情報は守るものではなく、公開していくもの
個人情報保護法ができたのが、2003年です。この頃は、ブロードバンドが流通し始めた時期なので、情報がこれまで以上に急速に世間に出回り始めた時期です。やばいよ、色々な情報が洩れちゃうよ、守らないとね、ということでこの法律ができたわけですね。古くからネットをされている方はわかると思いますが、この法律が成立するまでは、ネット上に個人情報を晒すことに関して、利用者にとっての心理的ハードルは大きくありませんでした。でもそれは、ネットを利用する人がマイノリティだったからです。ネットそのものに、アングラ的要素があったわけですね。ネットを利用する人がマイノリティからマジョリティに変質する時期にあって、自分の情報をどのように守るか、ということが主要な話題になり、個人情報保護法が成立したと思われます。現在はどうでしょうか。もはや情報はちまたに溢れ、例えばこのブログのように実名を出したとしても、特に世間様に気に留められることはありません。膨大な情報の中のごくごく一部に過ぎず、ごくごく一部のありがたい読者がいるに過ぎません。それに、我々の普通の生活では、個人情報を外部に提供するのは、もはや普通のことです。クレジットカードを初めとして、必ずネットを利用した外部サービスを使うことになりますが、そうした場合には必ず個人情報を提供しています。ことほどさように、現代社会では、個人情報を一切出さないという生活は困難です。たとえば、LINEの利用は、個人情報が抜き取られるから危ない、なんて話もあり、実際にそうなのかもしれませんが、しかし便利でかつ実害がなければ、多くの人は使います。実害がなければいいんです。何が言いたいかというと、情報はもう守るものではなく、自分が望む望まないに関わらず、ある部分では勝手に誰かに利用されているものである、ということです。そして、情報を提供する側も、そのことに抵抗が少なくなってきているはずです。個人情報を外部サービスに提供する際、いちいち保護規定を確認している人は、どのくらいいるでしょうか。こういう時代にあって大切なのは、情報を守ることに必死になるのではなく、「いかにプラスになる形で利用し、公開するか」ということです。
②知識は得るものではなく、峻別して組み合わせるもの
こうした時代にあって、必要なことはなんでしょうか。よく言われることですが、今や、Google先生に聞けばほとんどのことがわかります。自分と同じ疑問を持っている人が、既に質問をしていて、そのやりとりを見たりすることができます。WordやExcelの使い方など、私のような素人レベルで分からないなあと思うようなことは、100%Google検索だけでわかります。学術界でも、論文がデータベースで公開されています。特に、アメリカなんかはすごいですね。一方、これほどの情報が溢れると、その内容がどの程度正確かの判断は、見る側に依存します。自分の好きな情報ばかり見た結果、デマに感化される危険性もあります。したがって、自分なりに情報を峻別する能力がないと、溢れる情報に埋もれてしまって、騙されたり、被害を被ったりする可能性があります。加えて、峻別した情報を組み合わせる能力が求められます。多くの場合、得られる情報はバラバラに存在しているからです。体系化された情報もあるかもしれませんが、その体系性が自分の目的と合っていないと、自分にとってはバラバラにしか見えません。バラバラに存在するものを組み合わせて、目的に合わせて自分なりに体系化する能力が必要になるでしょう。
以上が、「ネットによる知の変化」について思うことです。
◎こういう場に参加できる自分
教養って一体なんなんでしょうか。大学教育学会の課題研究集会に参加しながら、ずっと感じていたことがあります。それは、「こういう場に参加できることそのものも、教養の一つだよなあ」ということです。大学で働いていると勘違いを起こしやすいのですが、「大学の起源はボローニャ大学やパリ大学であり…」という知識や、「日吉神社の句碑を説明しようとすると、どれほどの学問知が必要かわかるか。今のG型・L型大学への批判はあまりに画一的だ」といった世論への批評的議論まで、まともについていける人というのは、世の中全体で考えると所詮一部の特権階級に過ぎません。そのことをよくよく自覚しておかなければならないと思いました。こうした場に参加できること、あるいは議論の内容が一定程度わかること、これはまさに私が我が国からいただいた学校教育の成果であり、親や友人の支援の結果であり、財産そのものです。自らの力で得たものではなく、時代や世の中や周囲の皆様から与えられたものです。自分が「たまたま」「偶然に」「幸運にも」与えられてきた環境、要素、そうしたものを世の中に還元しなければならない、自分にはその義務がある、ということを大げさかもしれませんが、改めて感じました。