松宮慎治の憂鬱

タイトルは友人が考えたもので,某アニメのことはわかりません。

未来のわからなさを楽しむために―「大学冬の時代」論への異議―

未来のわからなさを楽しむために―「大学冬の時代」論への異議―*1


1.はじめに―こうなることは、前からわかっていた―
 まあこうなることは、わかっていたことじゃないですか。ぼくの中では少なくとも。ぼくらの中では、売れなくなるのは間違いないと。で、これから再び昔のようにCDが売れ出すことも、絶対にありえない。だけど音楽は減らないんですよ。なくならない。量も減らないでしょう――。
 これは、エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社代表取締役社長・創業者社長の松浦勝人氏が、CDが売れなくなった音楽業界の現在について語った際の言葉*2である。この言葉を耳にしたとき、松浦氏の言う「音楽」はそのまま「教育」に置換できるのではないかと感じた記憶がある。昨今、わが国の大学を語る時の枕詞は大抵マイナス基調の言葉であり、中でも「18歳人口の減少」は最頻出ワードである。一言で表現するなら、大学冬の時代――。そうした厳しい現実が眼前にあることについて、大学業界の内外に関わらず、大きな危機感を伴って言及されている。
 ところで、18歳人口が減少することはかなり以前から予測されてきたことであって、今になって突然生まれた課題ではない。すなわち、大学が抱える諸問題も、CDが売れなくなった音楽業界と同様「こうなることは、前からわかっていた」はずの事実に過ぎないと思われる。

2.でも、この先どうなるかがわからない
 松浦氏は前述の言葉の続きとして、CDにとって代わる何かについて、「どういう風にしていくのかっていうのは、今一番わからないときなんですよ」「CDから何かに変わるのか、それともずーっとCDなのか。ブルーレイになるのかならないのか。まあすることはできるけれども、向いているのか向いていないのか」、そうした「新しい音楽の届け方」が今一番わからなくて、自分たちが考えているものになればいいと述べている。
 大学業界においても、近年ではMOOCsをはじめとするテクノロジーの発達が高等教育のありようを変える兆しを見せている。さらには、学生の学修成果を担保するために、従来の講義形式ではない新たな枠組み(たとえば「アクティブ・ラーニング」や「PBL」)を用いた学びが必要ではないかという議論が人口に膾炙する。この現状は、CDにとって代わる何かがわからず模索を続ける音楽業界に似ている。今のままではよくない気がする、でも新しいありようがまだわからない。そういうわからなさの前に、我々は大学人として暗中模索しながら働いているのではないだろうか。

3.変化の質が違ってきた―連続から非連続へ―
 そうはいっても、未来というのは元来わからないものである。諸先輩方にこれまでの人生を振り返っていただければ、未来は常に不透明なものであり、先行き透明な時代などというものは未だかつて存在しなかったという点には賛同いただけるように思う。一方で、そのわからなさがかつてより深刻に身に迫ってくるという実感を持つこともある。私はこの原因を、過去から未来への変化に関して、その質が違ってきていることにあると考えている。
 変化の質が違ってきたことの事例として、携帯電話の発達とそれにとって代わったスマートフォンを思い浮かべてみる。携帯電話は、元々場所を問わずに電話ができる便利なデバイスとして生まれたが、私が中高生だった2000年頃には既に電話機能は副次的なものとなり、友人同士のメールのやりとりが利用サービスの中心となっていた。ところが、2007年にアップル社のスマートフォンであるiPhoneが発売されたことを契機に、携帯電話の電話機能は徐々に没却され、最終的に持ち運べる小さなパソコンとしての役割を果たすようになった。加えて、近年では無料通話アプリ*3の登場によって、メール機能もあまり利用されなくなったと思われる。端末の機能が革新されたことに伴って、人々のコミュニケーションのありようも併せて変容したと言えよう。すなわち、かつての携帯電話はパソコン的機能がかなり限定されており、メールを用いたコミュニケーションも1対1にならざるをえなかった(そして、そのことに不便を感じていたわけでもない)が、パソコンと完全に同じ役割を担えるスマートフォンの登場によって、FacebookTwitter、LINEといったSNSの要素を含む緩やかな集団の繋がりによるコミュニケーションが増えてきたのである。
 携帯電話からスマートフォンへの変化から見えてくるのは、変化の質としての非連続性である。携帯電話が電話とメールの機能を中心としたままスマートフォンに進化したのであれば、それは連続的な変化とみなすことができる。しかしながら、スマートフォンが電話的というよりもむしろパソコン的であったことから、それらを携帯する人々のコミュニケーションも以前とは異なるものとなった。前者のような連続的な変化であれば、将来はこうなるかもしれないという見通しを過去との比較からなんとなく持てることがある。翻って、後者のような非連続的な変化の渦中では、何がどうなるのかの予測がつかないので、先の見通しを持つこと自体が意味を為さなくなってしまう。私自身も、携帯電話によるコミュニケ―ションがたった数年で過去のものになるとは思いもよらなかった。学生時代に深く根付いていたいわゆるケータイ文化が、最終的に「ガラケー」と揶揄されながらあっさりと市場から退場していく様子には色々と考えさせられるところがあった。
 このように、変化が非連続的なものになりつつある社会では、つい昨日まで信じていた価値観、考え方、生活スタイルが突然過去のものとなってしまうことがありうることを知った。このことは、もはや未来が過去の延長線上に続いていくことに期待できない事実を示唆している。

4.未来のわからなさを楽しむために
 こうした未来のわからなさは、できれば前向きに捉えて楽しんだ方がよいと考えている。昨日の延長に明日がない状況はこれからも加速すると思われるし、かつそのこと自体は自分ではどうしようもないからである。自分ではどうしようもないことを不安に感じながら将来に備えるよりも、未来のわからなさを楽しみながら今を生きた方が健康的ではないだろうか。
 そうはいっても、頭で考えることと実際に行動することの間には壁がある。この壁を越えるために、自分なりに検討したちょっとしたコツが三つあるのでご提供したい。そのコツとは、第一に昨日の自分をあっさり捨てること、第二に過去や未来に拘泥せず現在にベストを尽くすこと、第三に他者の力を厚かましく借りることである。
 第一に、昨日の自分をあっさり捨てることについて述べる。私は新卒で現在の法人に入職して7年目を迎えている。このくらいの期間を過ごすと、職務における成功体験の一つや二つは持つようになる。それはそれで尊いことだが、そうした成功体験に固執すると「以前はこうしていたのに」といった保守的な言葉が口をつくようになってしまうことがある。既に古くなった価値観をそれと気づかず後生大事に保持してしまうのは危険である。ここでは、そうした成功体験などまるでなかったかのように忘れてしまうという振る舞いが望ましい。いつでも変化できる自分でいる、迷ったら変化をとる等と言い換えてもよい。昨日の自分をあっさり捨てたり、迷ったら変化をとることができたりする態度を保つためには、新たな環境に身を置いたり、やったこともない新たなチャレンジをしたりして、常に新鮮な要素を自身に取り入れる癖を持っておくことが必要となる。
 第二に、過去や未来に拘泥せず現在にベストを尽くすことについて述べる。最近では目標を設定することは必ずしも良いことではないと感じるようになった。なぜなら、目標を設定してそれに向かうという営みは、①未来が、現在の自分が想定できる範囲にしかおさまらない②常に人生の本番を先送りすることになりうる、という2つの問題を孕んでいると考えるからである。設定した目標に向かって現在を生きるときに、そもそもその目標が現在の自分が想像できる限界の範囲に規定されざるをえないことが気にかかる。また、未来志向であることは一見よいことのように思われるが、常に先を見据えて生きることで、未来のために部分的に現在を捨象してしまうことにもなりかねない。よって、人生の本番は現在にしかないということを強く意識しながら、現在にベストを尽くし続けることで、現在の自分が予測できない未来へ導かれるという生き方を個人としては選択したいと思っている。
 この第二のコツと関連するが、若手・中堅・ベテランといった、時間軸によって切り分けられた階層で職業人を論じることには以前から疑問を持っている。大学職員の組織は年功序列の色が濃いからか、特にそうした傾向が顕著であると感じている。大学職員を会員の中心とする大学行政管理学会でも、近年「若手や中堅をどう育成するか」といったテーマが論じられることが増えてきた。しかしながら、こうしたテーマは時間を経れば仕事が熟達していくという枠組みに依拠する考え方であり、あくまでも変化が連続的であった時代にしか適用できない価値観であるように思う*4。非連続な変化の時代では、若手よりも中堅、中堅よりもベテランが優れた価値を生むとは限らない。その仕事にどのくらい従事してきたかといった時間の蓄積の多寡よりもむしろ、成功体験や昨日までの自分をあっさり捨てるといった個人的な態度や性格、持っている素養が生み出す価値に直結するようになるだろう。
 第三に、他者の力を厚かましく借りることについて述べる。昨日の延長に明日がない状況では、昨日まで通用した力が明日も通用するとは限らない。また、社会的にも特定の組織内の人材だけで目の前の課題に対処することは困難となり、その都度プロジェクト的に組織内外から有為な人材を調達して問題解決にあたる傾向は増していくだろう。この傾向は、全てを自分だけの力で行うのは不可能になりつつあることや、得意領域の見えない平均的な人材は周囲から生かされづらくなってしまうこと等を暗示している。こうした状況下では、まず自身の得意とする領域を形づくり、対外的にわかりやすく示す力が必要となる。加えて、自身のみならず他者の得意とする領域をも理解しながら、問題解決のために各々の特技を組み合わせるコーディネート力が肝要となる。そのためには、力を借りることのできる多様な他者のネットワークを持つとともに、他者の力を躊躇なく借りることができる厚かましさを持てた方がよいだろう。自身の力だけで為しうることなど本来限定的なのだという事実を謙虚に直視すれば、他者の力を借りることは迷惑でもなんでもなく、むしろ積極的に推奨されるべきことであることが自覚できる。自分ひとりでなんでもできる人ではなく、自身の明確な得意領域を持ちつつ、併せて他者の得意領域を引き出すことができる人になれれば、どのような未来であっても必ず適応できるという確信を抱くことができると考えている。
 以上三つのコツを心がければ、自分ではどうしようもないことを不安に感じることもなく、未来のわからなさを楽しみながら今を生きられる気がするのである。

5.おわりに―あえて「大学春の時代」と呼ぼう―
 最後に谷川俊太郎の詩『春に』*5をご紹介したい。この詩は次のような一節から始まる。

この気もちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる
この気もちはなんだろう

 高校一年生のときに、一つ年上の先輩が歌う合唱曲によってこの詩を知った。この合唱曲を聞くと、15歳だった頃の感性を思い出すとともに、今の自分は本当に現在にベストを尽くしているのか、わからない未来にワクワクを感じながら生きているのかという批判をかつての自分から突き付けられるような気持ちになるのである。
 私は大学職員の仕事を若い可能性を伸ばす仕事であると捉えている。この仕事は、最後には春という新たな息吹を感じる季節に学生を送り出す仕事でもある。そうした現場で働く我々が自らその将来を冬の時代と呼称し、ネガティブに捉えるのはある種の自己矛盾だと考えている。大学業界の未来が暗いかどうかなどということは、これからを生きる若い可能性には関係ないことである。なにより、若い可能性を伸ばす大学の性格は、未来を感じさせる春そのものの要素を本質的に含んでいるのであるから、その大学が持てる時間はどうあれ「大学春の時代」と呼べるに違いない。
 若い可能性を送り出す季節に働く者として、わからない未来をできるだけ楽しみながら、常に現在にベストを尽くしたい。これが私の職業人としての基本的な姿勢である。

*1:この文章は,高等教育研究会の依頼を受けて『大学創造別冊大学職員ジャーナル』(第18号,pp.38-41., 2015年5月発行)に掲載されたものです。同会が解散したこともあり,以後参照が難しくなる可能性があると思い,ブログへの転載許可を願い出たところ,快く了承いただきました。同会事務局および佐々江氏に深く感謝申し上げます。

*2:熱狂の創造者・松浦勝人のキセキPart7(http://youtu.be/XBvz3gQNZvo)、熱狂の創造者・松浦勝人のキセキPart8(http://youtu.be/Fkl8UIOudkk

*3:代表的なものが、LINE株式会社(旧:NHN Japan)の提供する『LINE』である。無料通話アプリといっても、通話よりもむしろチャット機能中心に利用される。

*4:もちろん、加齢による経験の蓄積が持つ価値を否定するものではない。

*5:谷川俊太郎『どきん』(理論社)86-87頁より引用