松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

元学校法人立命館理事長・川本八郎氏の発言を批判する(1)発言録の整理

当初は,「批判する」ではなく「批判的に考察する」というマイルドな表現にしようと思ったが,そのようなおためごかしのつまらないブログは誰も読みたくないだろうと思って,あえて攻撃的なタイトルにした。
川本氏は有名である。自分がまだしがない大学生で,別に大学で働くことも決まっていなかった頃から知っていた。
その意味で,別に大学に関係ない人にも知られている存在であろう。
もしかしたらゴシップ的な要素も含まれるかもしれないが,私が彼を知っていたのは,
(1)職員から理事長になった
(2)どんどん改革した
(3)教職員の賞与を一か月カットする一方,理事長職の退職金を倍にした
(4)以上の帰結として,さまざまな裁判を抱えていた
という4つによる。
断っておくが,私は川本氏のことを嫌っているとか,軽蔑しているということはない。
たとえば,迷ったときは「学生のために」という原則に戻るということや,目の前の仕事では日本で一番のプロになるべきである,という意見には大いに賛同していて,自分でも実践している。
しかしながら,やはり違和感を覚える部分もある。その違和感を残しておくために,記事にした。
また,このように公の場で残すことにも意図がある。この点については,連載の最後に記す。

今回は川本氏の発言録の整理である。
川本氏の言葉は,実は2回直接伺っている。いずれも本学で行っていただいた講演である。
1回目は,去年か一昨年の4月であった。2回目が,今年の2月20日(土)である。
1回目に覚えた違和感を確かめに,2回目を伺った次第である。
内容は以下のとおり。赤字は筆者。

発言録

阪神大震災を機に,京都の立命館が崩壊したらどうするかを考えた。その結論は退職金積立の転用であったし,他大学からの援助を求めることであった。したがって,立命館も私大連を通じて関学大と甲南大を援助した
・学生が地震で死んだら,地震の責任か?そんなことはない。建物をきちんと管理運営している大学と,そうでない大学では違う。そう考えて,立命館宇治高校は全面改修した。子どもや学生の命には責任を持たねばならないということを,震災から教えてもらった
関空ができるときに,泉南スタンフォード工科大学?立命館校?を作りたかったができなかった。国際化にも関心があった。みなさんの孫の時代には多民族国家に絶対なっている
・現在の学園は責任はあれど権限はない。別の側面からいうと,責任はないのに権限があるところがある。今の大学は無政府状態であるし,時間がたてば理事長・学長中心にならざるをえない
・大学のことを日常的に一番考えているのは,学長であり理事長である。存在が意識を規定していて,責任がその人を考えさせるからである。よって,責任者の意見はまず聞くことが大事である
・大学の先生は「○○大学を素晴らしくしよう」として就職するわけではない。大学の教員というのは基本的に個人主義者である。自分の所属大学を通じて社会貢献をしようとしている人はいない。神戸大学から誘われて断る人はいるか。立命館にいて京大からの誘いを断ったのは,半世紀いて1人だけ
・なんでも「先生に相談する」ではだめ。職員は自分で政策を作れ
・グラウンドにいる間は誰でもできる。監督がいてコーチがいるから。しかし,問題なのは,グラウンドを出てから翌日グラウンドに入るまでだ。これは我々の仕事もそうである。スポーツと音楽は本質的に国際的で,仕事と共通することが多い。英語ができなくても野球はできる。また,感動も共通している。教育に大事なのは感動。スポーツはこれらを内包している
・スポーツ推薦を導入するときも随分混乱した。重要事項の決定は全学一致の原則というのが当時あって,理工学部が反対した。これを蹴って推進したところ,翌年の教授会で理工学部で賛成した。どういう学生を伸ばしていくかというときには,その能力について考えなければならない。情熱をもって説得しないと刺さらない
・文部科学行政は国立大学中心である。国立大学の職員は形式的な書類を整えるのに謀殺されている。あれでは変革はできない。国立大学はどこをとっても金太郎飴である。国立大学の学生には母校愛というものがあるのか。変化の激しい現代社会では,私学が重要になる。ところが,今は国立大学を模倣している
・APUは本来は国や東大の仕事だ。東京教育大学が筑波になったが,何か変わったか?変わっていない。私立が大事
・自分の大学の校歌を肩を組んで歌うのは私学の特権であり,感動する。国立大学にはそれがない