松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

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2016.12.4

サルでもわかる教職課程再課程認定申請――の,核となる部分。「シラバス」「業績書等」の提出パターンについて――

標記の件について,以下のとおり報告します。
ご存知のように,文部科学省による教職課程再課程認定等の全国説明会は,8月28日(月)の中部•北陸ブロック(名古屋会場)をもって終了しました。
これにより,基本的な行政手続きが確定されました。現時点の質問回答集の数は644にのぼり,その一部は7月10日(月)の東京ブロック以来,そのつど更新ないし変更が行われています。
今後も細かい変更はありうるものの,マイナーチェンジに留まるものと思われます。
その上で,私は全国の私立大学の教職課程および文部科学省(加えてその両者間)の行政手続きコストをできるだけ小さくしたいという思いを持っています(持ってきました)。
この理由は2つあって,1つは教育研究へ割かれるコストをできるだけ減らしたくないということです。
もう1つは,今回の法改正では教職課程の量と質の関係(すなわち適正規模)に関する議論がほとんどなされていないように見えるが,その一方で量が「なんとなく」減ってしまう雰囲気があることに抗いたいということです。
誤解のないように書いておきますが,私は手続きの重要性は理解していますし,文部科学省に批判的な気持ちもありません。
この国の教員養成や教師教育に微力とはいえ貢献できないかと常に思っていて,かつその義務や責任が自分にはあると考えているわけです。
(理由2つはいずれも,「サルでもわかる」の本編では最後のおまけとしてお示しするつもりです。また義務と責任の話は,簡単に言えば恵まれている人間や何かを学んだ人間は,それを自分の利益に留めない義務があるという価値判断をしているという趣旨です。ちょっと表現くどいですね,すいません)
そして再課程認定を見据えながら,ここ3年くらいは過ごしてきました。
しかしながら,今回の誰が悪いわけでもないスケジュールの大幅な後ろ倒し,そして普段の業務(さらにはプライベート,ていうか大学院)に7,8月は大幅に時間を割かなければならなかったこと,等によって,予告していた『サルでもわかる再課程認定申請』の執筆が進んでいません。
まあ,絶対に使いたくない言葉なのですが「バタバタしてた」ということです。今も学生ボランティアの引率のためにフェリーにのっている時間で,これは予約投稿です。そして更新講習(教職担当者の夏の仕事はこれがあるので…書き散らし氏の更新が滞っているのも基本これが理由でしょ笑),プライベートな査読論文…このままでは倒れる。忙しいアピールと笑ってください。

くだらない前置きはさておき,「サルでもわかる」の核となる部分は完成しましたので,先んじて公開したいと思います。
これ以上お待たせすると,趣旨が達成されませんので。
今回の最大のポイントは,「省略」です。このため,一体何が省略されて,何が省略されないのかを正確に把握する必要があります。
そうでないと,提出に行ったその場で抜けがあり,即終了ということになりかねません。
通常の課程認定の方が「全部出す」ので,わかりやすいとすら言えます。
再課程認定の手続き全体では,まずそこがややこしいところだと思っています。

以下は全て,松本顕一氏(京都産業大学)のレビューを受けました。彼に質問したり,議論したりすること,またフラットかつスピード感ある関係性の中で,気づけたことが多くありました(ていうか今も現在進行形であります)。
またお名前を挙げることはできませんが,もう1名の方にもレビューをいただきました。
記してお2人に感謝の微意を表します。

シラバス」「業績書等」の提出が求められる範囲はどこか?

以下(1)(2)(3)のように,場合わけを行って考えるとわかりやすい。
(1)「新規事項及びコアカリキュラムが策定された事項」の場合
(2)「新規事項及びコアカリキュラムが策定された事項以外の事項」の場合
(3)(1)が(2)に干渉してくる場合


(1)「新規事項及びコアカリキュラムが策定された事項」の場合

 基本的には,以下の3つ。

1. 旧「教職に関する科目」のうち,「教職実践演習」を除くすべて
2. 旧「教科に関する科目」のうち,「小学校の外国語」「中学校・高等学校の英語」
3. 新規事項のうち,「幼稚園の領域に関する専門的事項」(今回の再課程認定で,旧「教科に関する科目」から変更するパターンのとき。経過措置により,タイミングを後ろ倒しすることも可能である)
 
このうち,「シラバス」「業績書等」の提出の要・不要の組み合わせは,『教職課程認定申請の手引き(平成31年度開設用)【再課程認定】ver.H29.7.7 初版』のp.7のとおりである。端的に言えば,上記の3つを対象とすると,「シラバス」は必ず提出しなければならないが,「業績書等」の提出が求められる科目は限られる。具体的には,次のとおりである。

1. 「幼稚園」の,「領域に関する専門的事項」のすべて【新規事項】
2. 「小学校」の,旧「教科に関する科目」のうち,「外国語」【コアカリ策定事項】
3. 「小学校」の,旧「教職に関する科目」のうち,「外国語の指導法」【コアカリ策定事項】
4. 複合科目【新規事項】
5. 「特別の支援を必要とする幼児、児童及び生徒に対する理解」【新規事項】
6. 「総合的な学習の時間の指導法」【新規事項】
7. (養護教諭栄養教諭の)「道徳、特別活動及び総合的な学習の時間に関する内容」【新規事項】
8. 大学が独自に設定する科目(新設科目)【新規事項】
9. 「中学校・高等学校の英語」の旧「教科に関する科目」のうち,科目区分(施行規則に規定する科目及び事項)「英語文学」に配置する科目【「同一事項名称」でなくなるため。】

 以上のことから,補足的に述べれば,新「大学が独自に設定する科目」のうち,旧「教科又は教職に関する科目」「養護に関する科目」「栄養に係る教育に関する科目」は,「シラバス」「業績書等」の提出は求められない。 

(2)「新規事項及びコアカリキュラムが策定された事項以外の事項」の場合

・担当者を「名称(施行規則に規定する科目及び事項)」*1の枠というグループ(チーム)として考えて,
・グループ(チーム)のメンバー構成が変わると,追加された新規メンバーは(その全ての担当科目について),「シラバス」「業績書等」の提出対象となる
・逆に,メンバー構成がそのままであれば,授業科目を新設しようが削除しようが,名称変更しようが,「シラバス」「業績書等」の提出対象とならない

 つまり,「新規事項及びコアカリキュラムが策定された事項以外の事項」の場合は,「名称(施行規則に規定する科目及び事項)」をグループ(チーム)とした,担当者の構成だけが提出書類を判別する上で問題になる。また,「シラバス」だけを提出する,といったことはありえず,必ず「シラバス」「業績書等」の提出はセットである。

(3)(1)が(2)に干渉してくる場合

 上記(1)(2)以外の第3のパターンとして,(1)が(2)に干渉してくるケースがある。具体的には,以下の2つである。
①(1)において「業績書等」の提出が求められ,かつ当該教員がたまたま(2)に含まれる科目を同時に担当している場合
→(1)(2)を併せた担当科目全てを「業績書等」に列挙することになる。このような場合においては,審査対象となるのは(1)の科目のみである【質問回答集:平成29年8月28日版,No.379】
②(1)の「中学校・高等学校の英語」で,2019年4月に新カリキュラムをスタートする場合
→(2)(1)の枠組みにもとづいてまず,科目区分(施行規則に規定する科目及び事項)「英語文学」に配置する科目は,当然「シラバス」「業績書等」を提出する必要がある。しかしこれに加えて,(2)の枠組みにもとづいた「シラバス」「業績書等」の提出要・不要を判断しなければならない

※最終更新日:2017年9月7日(木)

以上です。
ちなみに,上記を考え始めたきっかけは,現行法から大きく変わる部分はわかるけど,あんまり現行法から変化のない旧「教科に関する科目」の部分の手続きがよくわからないな,と感じたことにあります。
私は上記がわかりやすいけれど,人によって合う,合わないはあるかもしれません。
万が一間違いがあれば,ブログトップの連絡先等で教えていただけると助かります。もちろん,ご質問もどうぞ。
「ご利用は自己責任で」という気はないです。
このようなものを公開している以上,第一義的な責任が自分にあるのは当たり前だというのが私の意見です。という程度の腹はくくっています。
しかし,少しずつ分担しながら,みんなで乗り切れると嬉しいというのが思いです。

*1:ここでいう名称は科目名称ではない。法律上の科目区分である。

トッド・ローズ著・小坂恵理訳『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』(早川書房)に関するもう少し詳細なレビュー

昨日取り上げた本書について,大学院の課題で使っていただいたので,そのために自身が作成したレジュメの内容を以下に転記する。

1.本日の課題

  以下の文献を購読し,自身の研究への示唆を得る。
トッド・ローズ著・小坂恵理訳『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』(早川書房
「はじめに」「第一章:平均の発明」「第八章:高等教育に平均はいらない」「第九章:機会均等の解釈を見直す」

2.内容

 「はじめに」では,平均というのは「隠れた暴君」であって,「平均的な人間」などどこにも存在しないという問題提起を行っている。そのことのわかりやすい事例として,パイロットの人体と女性の体型という2つを挙げている。つまり,平均的なパイロットや典型的な女性の体型を探求するという試みにおいて,最終的な結論が「そんな人間は存在しない」であった,というのである。そして筆者が問題にしているのは,「平均的な人間は誰もいない」にも関わらず,我々の社会制度ではきわめて多くの機会(学校,就職から,クレジットの信用度まで)に「平均」が用いられていることである。妥当性が疑われるにもかかわらず,人々の内面には深く刻まれてしまっているということを問題提起している。
 「第一章・平均の発明」では,天文学をルーツとして平均が発明されたことが描写されている。具体的には,個々の天文学者の測定値にはバラつきがあるので,平均値によって真の値を正確に予測しようとしたというのである。これと同じ発想を人間に援用したのがケトレーであった。ケトレーは,「個々の人間は誤差を伴うが、平均的な人間は真の人間の象徴だと宣言したのである」(p.43)。このような平均的な人間をケトレーは,今日とは異なり,完璧そのものの「平均人」と考えた。すなわち,「平均人」は理想の姿であったのである。このためケトレーは,「平均人」の素顔を探るためにあらゆるデータを探索し,ケトレー指数(今でいうBMI)を開発したのである。この「平均人」というアイディアは,人々の,人間を単純にタイプ分けしたいという衝動を正当化することとなった。たとえば,「タイプAのパーソナリティ」「神経過敏なタイプ」「うるさい上司」「リーダーシップ」等の分類である。このケトレーの研究を境に,「平均の時代」が幕を開けたとされる。「平均は正常で、個人は間違っているという図式が定着し、さまざまなステレオタイプの妥当性が科学によって裏付けられた」(p.47)。「平均人」を万能とみなす価値観を今日の状態,すなわち平均値からの距離によって,有能・無能を区別する形にアップデートしたのがゴルトンである。ゴルトンは平均値との差をエラーではなくランクとして捉えたことにより,価値観を修正した。
 「第八章・高等教育に平均はいらない」では,新たな高等教育の未来が提案されている。具体的には,(1)ディプロマではなく,資格証明書を与える(2)成績ではなくコンピテンシーを評価する(3)教育の経路を学生に決定させる,の3つであり,部分的には既に実行されつつあることが示されている。「学生は教育に関してもっと多くの選択肢を持つべきで,その選択肢はひとつの大学ではなく複数の大学から提供されなければならない」(p.224)からである。
 「第九章・機会均等の解釈を見直す」では,機会の平等をとらえなおす視点が提起されている。従来のモデルであれば,機会はアクセスの平等であった。これは,同じ経験に誰もがアクセスできることを目指す価値観である。しかしこの価値観には,アクセスできるシステムの標準化と,それにアプローチする個人の機会が平均的に最大化されてしまうという欠点がある。このため,そのシステムが個人にフィットするかどうかが評価しえない(=フィットすれば機会が生まれる,という発想が捨象されている)としている。

3.コメント

 まずフェアに言及しておかなければいけないことは,筆者は平均思考には良い部分もあると言っていることである。p.23において,「たとえばチリ人のパイロットとフランス人のパイロットの実績を個人的に比べるのではなく,集団として比較する際には,平均が役に立つ」としている。
 その上で論点になりうるのは,以下の3つであると考える。
(1)平均思考は,本当に役に立たないのか?
 筆者の指摘は,平均思考が多くの場合役に立たないということである。しかし筆者自身も述べているように,そうであるにもかかわらず,平均思考が多くの場面で用いられてきた(いる)。この状態について,「科学的虚構にすぎず、想像力が誤って誘導された結果にほかならない」(p.24)という言葉で説明可能だろうか。たしかに本書ではさまざまな実証研究を引用しつつ,平均思考が誤謬に過ぎないことが示されている。だが,現実に多くの場面で用いられていることの要因を,人々の想像力の誤りに付すのは説明力に欠けるのではないか。なぜ,本当は役に立たないにもかかわらず多くの場面で用いられるのか。そのことの説明の過程で,「やはり役に立たない」ことも実証される必要がある。
(2)コストは誰が,どのように負担するのか?
 平均思考が役に立たないとしたときに,個人にフィットする仕組みに焦点を当てるべきだという意見には賛成する。しかし本書では,そのコストを誰が,どのように負担するのかという処方箋が示されていない。普通に考えれば,個人にフィットしたシステムは平均にフィットしたシステムよりもコストを費やすだろう。このため,実はそうではなく,個人にフィットしたシステムの方がコストの安いことや,コストの高い個人にフィットしたシステムを採用してもなお,社会経済的便益が高くなるという証明が必要である。
(3)「分布」の視点が捨象されているのでは?
 本書では,「(集団)平均」か「個人」という二項対立で論が進められているが,ここに第3の軸として「分布」を加える必要があるのではないか。本書で言及されている「平均」は,平均値との差を人間のランクであるとする研究を引用しているように,無自覚に正規分布を仮定しているように見受けられる。しかしながら,平均値(に限らない基礎統計量)を考えるときに「分布」がどうなっているかは重要なことで,「分布」の視点を捨象して議論することは本来難しい。
 以上3つの論点を踏まえて本書の感想を述べると,たしかに無意識のうちの「平均思考」は我々のうちに存在し,ある意味では毒されていることに気づかされたと言える。その一方で,「(集団)平均」と「個人」の2軸の対立はわかりやすいが,果たして本当に成立するのかという疑問がある。(3)で述べたような分布の問題もあるし,たとえばAという個人の成績の推移を確認したパネルデータの平均は,「(個人)平均」として有益であろう。また,データそのものが,「集団」「個人」という二層ではなく,マルチレベルで存在していることを考えると,平均の有用性もレベル別で異なると考えられる。まとめると,新たな問題提起を行った書としてはセンセーショナルで,かつわかりやすいという素晴らしさがある。ただ,この書が真に価値をもたらすのは,「平均」を用いるべきでないときに「平均」が用いられてしまっているとき(そしてそのことにこれまでの価値観からそのことに気づきにくいとき)であろう。平均思考を捨てるべきか否かというのは,既述のようにケース・バイ・ケースであるとしか言いようがないと思われる。


平均思考は捨てなさい

平均思考は捨てなさい

トッド・ローズ著・小坂恵理訳『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』(早川書房)を読了

標記の本を読了した。
読み終わって思うことは,タイトルの「思考」は「志向」と読み替えることもできるなあ・・ということである。
つまり,本書で取り上げられているのは,平均「思考」への批判であると同時に,「志向」への疑義でもあると思うのである。
本書では平均思考が統計的にほとんど意味をなしていないことを喝破してはいるが,さりとて一定の条件のもとでは意味があるのではないかという気持ちも捨てきれず,
そうであるならばそれは趣味とか志向の問題も入ってくるのかな,という感想をもった次第。

本書は9章構成になっている。
第1章では,天文学をルーツとして平均が発明されたことが描写されている。
具体的には,個々の天文学者の測定値にはバラつきがあるので,平均値によって真の値を正確に予測しようとしたというのである。
第2章では,個性を重視しない平均主義によって,無駄を系統的に解消しようとしたテイラーによる試みが紹介されている。
これは,かの有名なテイラーの科学的管理法による標準化である。
科学的管理法によって誕生したのが,作業はせずにプランニングに携わる"マネージャー"や"組織図"である。
科学的管理法は工場から学校を始めとした多くの社会的制度に転移され,人間のタイプ分けやランク分けが習慣化することになった。
第3章では,こうした平均思考にゆさぶりをかけた研究の発展が示される。
「集計してから分析する」のではなく,「分析してから集計する」ことによって,それまで見過ごされてきた真実がわかるという。
第4章では,第3章に引き続き,平均思考の誤謬が喝破されている。
多くの場合我々は,「できる人は何でもできる」というように,個々の能力や才能の間には高い相関があると思い込んでいる。
しかし,現実にはそうなっていない(むしろ相関は低い)ことが示されている。
第5章では,人間の特性(たとえば,おとなしいとか,熱しやすいとか)のようなものは,実はコンテクストで規定されることが述べられている。
すなわち,ある人間の行動はその個人の特性によって規定されると思われることが多いが,現実にはコンテクスト次第でまったく異なる行動をとっていることを明らかにする。
(ちなみに,このことを明らかにした研究者として日本人の正田祐一先生が挙げられている)
第6章では,人間の人生に標準的な経路など存在せず,個々のペースが本来はあることが述べられている。
標準的な経路と比べて,自分の人生はどうかと比較すること自体が,平均思考の一つとされている。
第7章では,組織より個を優先して業績が向上した企業の事例が分析されている。
第8章では,「高等教育に平均はいらない」と題して,新たな高等教育の未来が提示されている。
第9章では,機会の平等をとらえなおす視点が提起されている。従来のモデルであれば,機会はアクセスの平等であった。
これは,同じ経験に誰もがアクセスできることを目指す価値観である。
しかしこの価値観には,アクセスできるシステムの標準化と,それにアプローチする個人の機会が平均的に最大化されてしまうという欠点がある。
このため,そのシステムが個人にフィットするかどうかが評価しえない(=フィットすれば機会が生まれる,という発想が捨象されている)。

以上見てきたように,本書では平均思考(ないし志向)を批判し,あるいはその捉えなおしを提案している。
個人的に,第4章の「才能にはバラつきがある」は驚きであった。
一つひとつの能力の相関はむしろ低く,複雑な個を理解するにあたっては一次元的な思考は役に立たないと喝破されている。
ひょっとすると,「才能にはバラつきがない」という社会制度上の文脈の中で,抑圧されてしまった才能もあるのではないかと感じられた。
その一方,第8章の高等教育の章については,「書かれていることはわかるが,今一つリアリティと乖離している」というのが率直な感想である。
この章で提案されているのは,(1)ディプロマではなく,資格証明書を与える(2)成績ではなくコンピテンシーを評価する(3)教育の経路を学生に決定させる,の3つであり,
部分的には既に実行されつつあることが示されている。
「学生は教育に関してもっと多くの選択肢を持つべきで,その選択肢はひとつの大学ではなく複数の大学から提供されなければならない」(p.224)等というのは本当に賛同するのだが,これらのことを実現していくためには相応のコストがかかる。
そのコストを誰が負担するのかということになったとき,個人重視の価値観では個人が負担するということにもなりかねない。
そうなると,トッド・ローズの言いたいこととは真逆の未来が実現してしまうのではないかということが気になった。そこの兼ね合いをよく考えてみたい。

平均思考は捨てなさい

平均思考は捨てなさい

とんでもない宿(2)


癒されました。
社会科学研究所のRのセミナーもすごくよかったです。

泊まったのはこちら↓
一泊1万円弱です。
鳳明館 HOMEIKAN

【お詫び】ブログトップのメールアドレスが間違っていました

ブログトップのメールアドレスが間違っていたので、修正させていただきました。

誤 : sanjyuumatu@gmail.com
正 : sanjyuumatsu@gmail.com

相談に乗ると言いつつ、8ヶ月も内容が間違っていて迷惑かけました。
ご指摘くださった方に感謝します。

藤本夕衣・古川雄嗣・渡邉浩一編『反「大学改革」論―若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版)を読了

結構前のことにはなるが,標記の本を読了した。
本書は,専門を高等教育論に限らない論客が集合し,90年代以降のさまざまな「大学改革」を批判的に検討するものである。
テーマとしては,PDCAサイクル,産学連携,補助金,社会との接続,大学の大衆化,大学生の生活,ポスドクグローバル化と教養,ジェネリックスキル,教養教育,古典語教育,学問の有用性等が挙がっている。
私が本書を手にとった理由は,自身の研究課題と関連して,二宮先生の論稿「大学教育と内外事項区分論—「利益の供与」による行政指導の問題」(pp.41-56.)を拝読するためであった。
こちらの論稿では,教育行政学では,教育を中長期的に安定させるために,外的事項(形)と内的事項(内容)に区別していることが指摘されている。
一方で,近年の補助金をはじめとする各種プログラムは,教育の内容・方法に踏み込んでいるというのが論稿の趣旨であった。
また,二宮先生の論稿で重要なのは,導入されようとしている内容・方法を必ずしも否定はされていないところであろう。
「教育学的な検証、各大学固有の文化に合うかどうかの吟味を踏まえることを条件として」,意義あるプログラムの導入には賛同されている。
つまり,現在の政策が必ずしも教育学的な検証や,機関の多様性に配慮していないことを批判されている。
※高野秀晴先生による「教化の場としての大学」も印象的であった。

反「大学改革」論:若手からの問題提起

反「大学改革」論:若手からの問題提起

  • 作者: 藤本夕衣,古川雄嗣,渡邉浩一,井上義和,児島功和,坂本尚志,佐藤真一郎,杉本舞,高野秀晴,二宮祐,藤田尚志,堀川宏,宮野公樹
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2017/06/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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