松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

私の「私の個人主義」体験

以前,以下のような記事を書いたことがあります。
shinnji28.hatenablog.com
ここで述べたことは要するに,社会的に恵まれた立場で過ごしてきた自分は,そのメリットを自らだけが享受するのではなく,世の中に返していく必要があるという義務感を覚えている,ということです。
上記記事のコメントにもついているように,これを「ノブレス・オブリージュである」と表現するのは,自分でもなんだか気恥ずかしいというか,傲慢な気がしていて,違うなと感じていました。
ではこれはんなんだろうとしばらく考えていたときに,夏目漱石による「私の個人主義」を思い出しました。
「私の個人主義」は,漱石学習院で行った講演の文字起こしで,高校1年生のときに使われた教科書に載っていました。
当時,1学期間くらいかけて授業で読んで,最後に「私の個人主義」という作文をみんなで書いた記憶があります。
改めて再読してみると,ひょっとしたら源流を辿るとここかな,という気がしてまいりました。
漱石学習院の学生に対して,

あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使える

そういう立場にある,と述べます。
そして,

権力とは先刻お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧し付ける道具なのです。

と言います。であるから,権力というのは偉いようでいて,その実非常に危険だと指摘しているわけです。
では,学習院の学生のような,元来恵まれてきた人は,どのように生きればよいのか。そのことを端的に表現しています。
少し長いですが,力ある文章なので引用します。(赤字はわたし)

 今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つまりこの三ケ条に帰着するのであります。
 これを外の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍言い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、貴方がたが将来においても最も接近し易いものであるから、貴方がたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくては不可いだろうと思います。

これが漱石なりの「個人主義」だ,ということになるでしょう。
こうした自分の「個人主義」体験が,冒頭のような記事に繋がっていたのかもしれない,と再読して思った次第です。

私の個人主義 (講談社学術文庫)

私の個人主義 (講談社学術文庫)