松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

日々の業務を通して見える学生―10年間の経験から―

以下の文章は,4年前に高等教育研究会の依頼によって行った話題提供(2014年度「大学職員フォーラム」に話題提供者として呼んでいただきました - 松宮慎治の憂鬱)によるものです(原文は,『大学創造別冊大学職員ジャーナル』(第18号,pp.52-59., 2015年5月発行)に掲載)。
同会が解散したこともあり,以後参照が難しくなる可能性があると思い,ブログへの転載許可を願い出たところ,快く了承いただきました。同会事務局および佐々江氏に深く感謝申し上げます。

1.自己紹介

 松宮慎治と申します。所属は神戸学院大学です。本日はこのような機会を頂戴しましてありがとうございます。まず関係者のみなさまに御礼申し上げます。
 さきほど阿部先生のご講演の中で、「独身貴族」と「パラサイトシングル」のお話がありました。私は神戸で一人暮らしをしているので「パラサイトシングル」ではないのですが、実家に帰るたびに親からは「お前は独身貴族やな」と言われています。
 さて、本日のタイトルを「日々の業務を通して見える学生―10年間の経験から―」とさせていただきました。しかし、元々は「10年間」ではなく、「7年間」としていました。大学で働き始めてからの7年間ということです。それをなぜ「10年間」に変えたのかを初めにお話ししたいと思います。
 10年前の私は、ちょうど大学1年生でした。だから、今年度は私にとって節目の年です。高校は非常に楽しかったのですが、大学生活は辛かった、というのが私の個人的な体験です。今回の資料を作るにあたり、大学で働くということを考えるときに、結局自分は自分の大学時代の経験に縛られていて、そこから逃れられないのだということに気づきました。大学生活がつらかった自分が、今なぜか大学で働いている。そういう経験が今の仕事に与えている影響は大きいと気づきました。
 今、高校は楽しかったと申し上げました。私が卒業したのは京都橘高校という私学の高校です。だから、今日こうして京都でお仕事ができるというのは私にとって非常に嬉しいことです。せっかく京都でお仕事をしますし、今日も京都橘学園の方がお越しだと思うので「卒業生頑張っていますよ」ということをお伝えして、京都橘アピール、京都橘推しで参りたいと思います。その後高校を卒業して大学に進学し、2008年の4月から神戸学院大学で働いています。次年度からは大学院に勤務しながら通う予定があり、そんなつもりはないのですが、ますます独身貴族を極めていくような雰囲気があって、自分でも不安に思っております。

2.自身の大学生時代

 私は大学入学当初、「便所飯」をしていました。専門的にはランチメイト症候群と呼ぶらしいのですが、とにかく、トイレでご飯を食べるということをしていた時期があります。便所飯をしている中には色々な人がいると思います。友達がいなくて一人でご飯を食べるのがいやだから、というケースもありますが、私はそうではありませんでした。むしろ逆で、一人になりたくて便所飯をしていました。専攻の友達がいたのですけれど、昼休みになると、あえてその集団から離脱して、一人で一番きれいな図書館のトイレに行く、ということをしていました。私が大学生だった2004年頃は、便所飯という言葉はおそらく知られていなかったと思います。大々的に知られたのは、私が働き始めた2008年だったはずです。おそらく、毎日新聞だったかと思いますが、ネットのニュースで「最近の学生はこんなことをしている」というような文脈で便所飯が取り上げられて、「これ、かつての俺やん」と思いました。ああ、俺は便所飯業界のフロンティアだったのだなと思いました。
 大学の何が辛かったのかというと、一言でいうと、高校までとの差が大きすぎた、ということです。例えば、親からも、これからはなんでも自由にしていいんだよ、と言われ始めます。でも、そんなことを急に言われても困るわけです。あるいは、講義の内容に関心が持てない、ということがありました。名称は立派なのに、内容が非常に限定されているものが多かった。人間関係も表面的に感じられました。私は、高校のようにクラスがあって、集合する場所が決められていたとしても、友達と仲良くなるのに半年はかかるタイプでした。そんな私にとって、緩やかなつながりの中で当たり障りのない会話をすることは苦痛でした。それから、「大学は人生の夏休み」という空気にも違和感がありました。この言葉は、実際に先輩が言っていたことです。これは、大学が終わったら人生はもう秋に突入してしまうということを言っているわけで、だから遊びまくれということだったと思うのですが、この空気に違和感をもっていました。さらに、私のときは、単位をいかに効率的にとっていくか、それが一番大事だという風潮がまだありました。
 そういう私にとって必要だったことは、「自ら動く」ということだったと思います。講義の内容に関心が持てないならば、自分で色々模索して、興味のあることを見つける。あるいは、人と積極的に関わっていくというようなことです。しかし、こうしたことは頭では理解していました。ただ、実際に行動することとの間には壁があった。なぜかというと、そういうことをそれまであまりやってきていなかったからです。
 さて、高校は楽しいと言いつつ、このように大学は楽しくないと言ってしまうと、まるで出身大学を批判しているような感じになってしまいます。私にその意図はありません。自分に力がなかっただけだと思っています。私はこうした辛い時期から、自力で浮上しました。でも時々、何か大学が浮上するきっかけを与えてくれていたら、何かが違ったかもしれないと思うこともあります。だから今の仕事では、あらゆる学生にきっかけを与える役割を果たしたいと考えています。大学になじめない学生、うまく大学生活を送れない学生の方が気になります。そうした学生は、大化けするし伸びるのだというふうに私は思っています。

3.仕事の経験

 私は2008年から神戸学院大学で働いていますが、最初は学生支援の部署に配属されて、2012年の6月からは教務にいます。このように、基本的に学生と接する現場に籍を置いてきました。学生支援のときは、学生向けの情報誌で頑張っている学生を取り上げたり、食堂の改善を目指すボランティア団体を作ったり、学外からの苦情対応なんかをしていました。この苦情の対応は非常に得意にしていまして、いわゆる「クレーム処理」のような発想で相対するのではなく、うまくやりとりをして、逆に味方につけてしまう、こういうことを得意にしていました。今は、教職課程の学生の支援をしています。
 普段の業務から少し外れるようなことでいうと、これは一例ですけれども、東北への学生ボランティアバスの引率を3回しました。これは車中泊でして、体力的には非常につらい。3回とも20人くらいの学生を引率しました。また、昨年は、京都産業大学さんにお世話になって、学生FDサミットへの引率もしました。このように、学外における非日常の体験を共有することが、学生と信頼関係を結ぶには有効であるということも学びました。
 今行っている業務ですが、教職課程の担当者として、教員採用試験の合格者をどう伸ばすか、ということに注力しています。ここはプロとして数に拘りたいと思っています。一方、単に免許状を取得したいだけ、という学生もたしかにいます。そうではなくて、真剣に教員になりたい学生、そういう学生が確実に現役で教員になれるようにはどうしたらいいか、そういうことを考えています。そのために、やはり大学の資源は限られていますから、学生同士が自主的に学びあえるような制度・環境・仕組みをつくるということに今は注力しています。

4.学生に抱く印象

 以上の経験を踏まえて、個人的に学生に抱いている印象です。
 まずプラス面ですが、学生から学んだことはたくさんあります。一例を挙げますと、教職課程を履修する学生は、4年次で教育実習にいきますが、終了後に後輩に一言ずつ話す、そういう振り返りのプログラムがあります。その中で、学生が印象に残るような言葉を使うことがあります。「子どもたちは、見ています」これは今年卒業する女子学生の言葉です。子どもというのは、教員が思うよりも遥かに自分たちのことを見抜いている、だからそのつもりで子どもと接しましょう、ということを言っています。それから、「教員というのは、自分より素晴らしい可能性を育てる仕事です、そう思って実習に臨んでください」これは、既に卒業した男子学生の言葉です。この2つの言葉、子どものところを学生に置き換えれば、まさに自分の仕事と同じです。このように、学生の言葉からはっと気づくようなことがたくさんあります。
 次に、マイナス面です。一つには、チャレンジを恐れるということがあります。まだチャレンジをする前に、自分にはその力がない、と勝手に既定してしまう傾向があると感じています。次に、<出席>を気にするということがあります。授業に出席する、すなわちその場にいるということそのものを評価してほしいという発想です。かつては、理解していることが大事なのであって、もし既に中身を理解しているのならば、究極のことを言えば出席する必要はないという発想であったかと思います。これと関連するのですが、平等性を気にします。自分は真面目に出席している、でも、あまり出席せず、効率よく欠席しつつ、単位認定はしっかり受ける、という学生がいたとする。そうすると、「自分は真面目にやっているのに、なぜあの人と評価が同じなのか」ということを言ってくる。加えて、他罰思考というものを感じます。他人の迷惑行為は罰してほしいし、罰せられるべきだという発想です。例えば、授業中の私語を注意しなかったら、なぜ注意しないんだと先生に言うことになります。ポイント制にして、一定のポイントに達したら退場させてほしいというような考えを持つ学生います。これは、指定場所以外の喫煙でも同様です。少なくとも、自分が注意する等のそういう発想はありません。

5.学生の多様化を感じる場面(他大学の友人へのヒアリング)

 今回、独りよがりになるのがいやだったので、他大学の友人にも、学生の多様化を感じる場面について色々と聞いてみました。ご意見をまとめると、大体8つにカテゴライズできるのではないかという風に思いました(①受け身の姿勢?②権利意識・消費者意識の膨張?③コミュニケーションの不全?④大人しく、保守的?⑤規範意識の欠如?⑥保護者との関わり?⑦学力の不足?⑧学ぶ意欲or環境の問題?)。すべてに「?」がついているのは、こんな風にまとめちゃっていいのかなという迷いがあったからです。細かく一つひとつについてご説明するのは避けようと思いますが、目で追っていただきながら「あるある」というような気持ちで見ていただければと思います。
 受け身の姿勢についてですが、「やる気スイッチを押してもらえるのを待っている」というご意見が象徴的としてありますが、誰かなんとかしてくれないかなあと待っている、ということです。また、履修登録のときに、自分で決定できないという学生がいます。権利意識・消費者意識については、要するに、自分はお金を払っているので、それに相応しい対価を受け取る権利があるという発想です。次のコミュニケーションの不全、やはりご意見としてはこれが一番多かったです。なかなか人と真正面からぶつかって関わろうとしないとか、窓口へ来ても話をするのが下手だとか、そういう状況があります。あるいは、一人ランチを見られたくないのか、隠れて食べたり急いで食べたりする、自分の落ち着く場所で食べる、これなんかは完全に私ですね。それから、窓口付近にきても、自分からは来ずにウロウロしている、こういう状況も、学生対応系の部署にいらっしゃる方はよく見かけておられるかと思います。それから、大人しく保守的だという状況もあります。若いから色々なことを積極的にやるのかなと思ったら、そうでもない。それから、この言葉が適切かどうかわかりませんが、規範意識の欠如。ルールを守るということが苦手だという学生もいます。学生本人にとどまらず、保護者との関わりが増えているというご意見もいただきました。最近ではお母さんだけでなく、お父さんからの問い合わせが増えてきたと。純粋に学力が不足しているんじゃないだろうか、というような意見もありました。文章が書けないというのはその象徴でして、特にキャリアセンターの方からこのご意見はよく伺います。履歴書を書く段になって、なかなか書けないということです。それから、学ぶ意欲や環境の問題というのもあります。さきほどの出席の話でいうと、これくらい出席をしなければ、単位は与えられないということが決まっていたりします。そうすると、「じゃあ3分の1は欠席していいんですね」ということを言ったりする。アルバイトの問題もあります。特にこのご意見は先生方からもいただいていて、どうもアルバイトの負担が重過ぎるのではないか、ということも言われています。

5.問題提起

 このようなご意見を拝見し、色々と考える中で、ふつふつとつぶやきのような疑問が生まれました。それは、一言でいうと、「多様化ってなんだろう?」ということです。今回のお話をいただいて、大学生の多様化を論じた文献も読みました。たとえば、岩波の大学シリーズに、多様化する学生をテーマにしたものがあったので、読みました*1。しかし、どうもしっくりこない。学生の多様化というのは、実はかなり以前から指摘されていることで、今に始まったものではないという指摘もありました。しかし一方では、大学へ進学する割合が増えているというデータもある。実際に、京都の大学も、10年前と比べたら、学部も本当に増えましたよね。そんな風に定員の拡大があり、実際に環境面で色々な学生が入学するようになったことも事実だと思いますし、そうした中で苦慮している仲間、教職員がいることも、これは事実だと思います。
 ですから、私には多様化が結局なになのかがよくわかりませんでした。学生は本当に多様化しているのでしょうか。仮に多様化しているとしても、多様化は悪いことなのでしょうか。大学の良さの一つは、色々な人がいる、色々な考え方が混在する、そうした多様性にあるはずです。しかし一方では、その多様性に苦慮するような状況もある。ということは、一口に多様化といっても、その中にはいいものと悪いものがある、望ましいものとそうでないものがあるということなのだろうか、そういうたくさんの疑問が生まれました。
 以上を踏まえて、問題提起というと少し言い過ぎかもしれませんが、普段から私が感じている問題意識のようなものをお伝えしたいと思います。一つには「大学の責任はどこにあるのだろうか」ということです。大学は、多様な学生を伸ばすための器をキープできているのでしょうか。管理思考や懲罰的発想で学生を委縮させてはいないでしょうか。例えば、証拠書類の提出を頻繁に求めるなど、学生が悪いことをする、ズルいことをする、そういう前提で制度設計がなされているという実態はないでしょうか。あるいは「社会に出たら、ルールを破ったら罰せられる。だからルールは大事だ」というような、ルールを盲信した物言いをしていないでしょうか。私はこの考え方に非常に疑問があります。たとえば指定場所以外の喫煙に関しても「決まったルールは守らなければいけない。守らないのはダメな人です」ということしか言えない場合があります。この「ルールは守らなければいけないのだ、なぜなら決まっているからだ」というような考え方は、学生に受け入れられません。私は次のような話を学生にしていました。「この大学には、体が弱くて、たばこの煙がしんどい子もいる。そういう子にとっては、指定場所で喫煙されるという行為は、非常に苦しいものがあります。その子は、直接的にはあなたの友人ではないかもしれない。しかし、同じ大学に通う仲間でもある。直接の知り合いでなくても、学びの場を共有する仲間として、想像力で補いながら知らない誰かを慮れるような、そういう大人って素敵ですよね」。若い人というのは、これからの時代を作っていく人です。だから、既存の価値観の存在理由を考えたり、場合によってはそれを壊したりしてもらうという発想が必要です。ルールを盲信するだけでは、そういう発想には至りません。なぜそのルールがあるのかを自分の頭で考えられなくてはなりません。
 それからもう一つ、非常によく聞く言葉として「大学生に対して、そこまでやらなければないけないのか?」というものがあります。これに対する意見が二つ目です。この言葉については、気持ちはわかりますが、あまり好きでない発想です。刺激的な物言いになりますが「それってめんどくさいだけなんじゃないの?」と思うときがあります。というのも「やらない」ということを選択するのにもそれなりにエネルギーが必要だと考えるからです。学生への支援というのは、とりあえずやるというのが実は一番楽で「やらない方が学生にとっていいから、教育的な効果が高いからあえてやらないのだ」と決めることには、多くの議論が必要ですし、信念がないといけませんし、それなりにエネルギーが必要なことです。「そこまでやらなければいけないのか」という言葉を発する人は、多くの場合そのようなハードな意思決定をしてはいないと思います。単に、少ししんどいなあ、めんどくさいなあ、そういう心情を愚痴のように吐露しているというのが実情だと思います。やらないこともいいことです。でも、やらないということをきちんとその理由を含めて決定し、信念を持って実行する、そういうプロセスを持ちうることが大事だと考えています。

6.学生と接する時に気にしている3つのこと

 こうした問題意識がありつつ、私がどのようなことに気を付けて学生に接しているか、をお話ししたいと思います。このようなことに正解があるとは思いません。私自身いつも試行錯誤していますし、模索していますし、たぶん模索が終わることはないのだろうなと感じています。私のやり方がいいのか悪いのか、批判も含めてみなさまと議論できればと考えています。私が気をつけているのは、待つこと、問うこと、こちらから積極的に関わることの3つです。窓口対応をケースとして考えると分かりやすいので、事例として考えました。
 まず「待つこと」です。窓口対応のケースでは、学生がなかなか用件を言えないという場面は非常によくあることです。みなさまの中にもそういう経験をされた方は多いと思います。私が気にしているのは、多少じれったくても、彼らが自分の言葉で言い切るのを待つということです。こういうことは、窓口が混んでいるときにはできないというデメリットはあるのですが。とにかく「それはこれの話ですか」と先回りして答えるのではなくて、学生が自分なりに言い切るまで、じっと待つということです。多少じれったくても、言い切らせてあげたいと思っています。
 次に「問うこと」です。10月に大学教務実践研究会というのがあり、そこで名城の池田先生が基調講演でおっしゃっていたのがこのことです*2。もともと、無意識にしていたことではあったと思うのですが、池田先生のお話を受けてより意識的にやるようになりました。すなわち、学生の質問に対して「それはこういうことですか?」「なぜそう思ったのですか?」というように深掘りしていくということです。なぜならば、学生がその質問を本心でしているか、あるいは正しく物事を把握した上で話しているかというと、必ずしもそうではないからです。
 昨日もこういうことがありました。ある2年次生の学生が「今2年次生で、教職をとっていないのだけれど、今からとれるだろうか」という質問にきました。こういう質問は非常によくあります。ふつうに対応すると「とれないことはないけど、難しいですよ」ということを伝えた上で、彼が修得している今の単位を一緒に確認して、教えてあげるということになろうかと思います。しかしながら、私は彼の口ぶりから「これは何かあるな」ということがなんとなくわかりました。というのも、免許の種類は国語か社会がいい、とか、留年してもかまわない、というようなことを言うのです。そこで、「なぜ急に免許状をとりたいと思ったのですか?」と聞くと、やはり部活の関係でした。彼はあるスポーツをずっとやってきていて、高校の部活の先生から「免許をとって教員として帰ってこい」というようなことを言われていたのです。以上のことを理解した上で、彼には、まずいわゆるコネの状況を十分に確認してきてくださいということをお願いしました。すなわち、母校に戻ってこいというのがどれくらい確定的な話かを確認しなさい、ということです。彼の母校は中高一貫校でしたから、とりあえず何か一つ免許状をとって帰ってこということなのか、あるいは一応中高を両方とってこいということなのか、そもそも母校に将来的に採用してもらえるということがどれくらい確定的な話なのか、非常勤や常勤でスタートして、いずれは専任になるのか、このあたりの条件如何によって、彼が今しなければならないことは大きく変わるだろうと思ったからです。私の考えとしては、「おそらく私学なので、いきなり専任になることはないだろう」「しかし、将来的に専任になることは考えておいた方がいいし、そのためには中高を両方持っておいた方がいいだろう」「ただ、1年でも現場に早く入った方がいいとも思うので、高校の免許状を取得して、非常勤でもなんでもいいから働いた方がいいだろう」「働きながら中学校の免許状を通信でとる、というのが一番賢いが、教育実習と介護等体験だけは、大学生のうちに中免取得用の条件を満たしておいた方がより賢い」という意見を暫定的に伝えました。状況の確認を依頼して、細かい単位数の説明は一切しなかったということです。
 学生の質問にただ機械的に答えるのみであると、その学生の要望をうまく満たせなくて、お互いに必要なことはしているけど、実はすれ違っているというようなおかしな状況になってしまいます。学生の質問に的確に答えるためには、その背景に対する理解がむしろ重要になってくると思っています。
 気にしていることの3つ目は、「こちらから積極的に関わること」です。さきほどの話のように、窓口付近で質問するでもなくウロウロしている学生というのは結構います。また、そうでなくても「すいません」と声を掛けられてから学生に対応することがあると思います。私はこの状況を「負け」と呼んでいて、いかに毎日勝ち続けるかということを考えています。私は集中して仕事をしたいタイプなので、学生の呼びかけに気づかないことは結構あると自覚しています。ではどうすればよいのかと考えると、休み時間になったら初めからカウンターに立っておけばよいのです。窓口での応対はそれとして集中してやるということです。また、周囲でウロウロしている学生に対しても、こちらから「お伺いしましょうか?」「どうしましたか?」と話しかけに行きます。これは窓口のケースですが、もう一つ、積極的に関わっている例をご紹介すると、学内ポータルにおける文章です。これは、先日送った実際の文面なのですが、形式的な文言の中に、わざわざ新年のあいさつや、自分にしか言えないこと、自分なりの言葉というのを加えて配信しています。なぜこういうことをやっているのかというと、学生の手元にはたくさんのお知らせが来る中で、多くの学生は流し読みしているか、ほとんど読んでいないだろうと思うからです。ではどういう内容であれば読む気になるかというと、形式にとどまらないものです。この条件として、誰が送ったか明らかであること、そして、その人にしか語れない言葉が含まれていることが必要だと思っています。その前提として、普段から学生とコミュニケーションをとりつつ、その人がどういう人か理解してもらっているということが必要です。こうした行動には色々と批判やご意見もあろうかと思います。私自身、試行錯誤しながらやっていますし、正しいかどうかはよくわかりません。

7.こういう関わり方で学生に表現したいこと

 こういう関わり方で学生に表現したいことはいくつかあります。まずは「みんなのことは自分が責任をもってみますよ」ということです。それから、学生対職員という関わりではなく、あなた対わたしというように個別の関係性を結びたいということです。なぜならば、特にしんどい学生にとっては「あの人がいるなら行こうかな」ということを感じてもらうということが、大きなよりどころになるからです。さらに、いつでも見ているしサポートする用意があると示すことです。実際にサポートできているかというと、自分でもできているとは思いません。ただ、そういう用意はあるということは常々伝えているつもりです。
 こうしたことは、あくまでも大学職員としてのプロ意識やこだわりを前提にしています。そもそも、こちらから積極的に関わるというのは私の本来の人間性からは最も遠い行動様式です。でも、プロとしてはやらなければいけない。なぜなら、学生支援とか教務の職員というのは、学生の学び、あるいは成長、そういったものをどう支援していくのか、支援する当事者そのものだ、それが仕事だという自覚があるからです。
 ただ、実際にそのプロ意識が意味のあるものかどうか、価値があるかどうか、プロとしてどうか、そのあたりのことは、自分では評価できないと思っています。そこの評価は、最終的には学生がするというのが私の考えです。

8.今後大切にしていきたいこと

 今後大切にしていきたいこと、を3つ挙げます。これらは、自分ができているかといったら、できていないと思います。だから、あくまでも自戒を込めて、ということになります。
 一つには、学生の可能性に期待する、ということです。私も同僚に、「あの子のああいうところは、教員には向かないですよね」みたいなことを言ってしまうことがあります。こういうことをやめる、ということです。なぜならば、その人がどういう教員になるかは、本質的に自分ごときにはわからないからです。そんな風に若い可能性を見切ることなど本来はできない。現場に入ってからものすごく化けるかもしれません。そういう謙虚さを大切にしたいと思います。
 それから、二つ目に、同僚の噂話よりも学生の噂話をする、ということです。同僚のだれだれがどう、上司がどう、学長がどう、このような話は、どのような組織であってもあることだと思います。私もしたくなります。ところで、本学の教職課程の学生は、600人を超えています。昨年、この全員の名前を覚えるということを目標にしました。しかし、全く目標に達することができません。これは、私が学生1人ひとりに十分な関心を払えていないためです。だから、同僚に関心を払っている暇があったら、学生に関心を払おうと。自分にはまだ、同僚の噂話をするような余裕はないと自覚する、ということです。
 三つ目に、自分の器を広げる、ということです。以前は、学生は自分の器以上には伸びないと思っていました。でもそれは間違いです。自分の器以上に伸びてくれます。ただ気を付けなければならないのは、それでもやはり、伸びるベースは自分の器の大きさだということです。0に何をかけても0にしかならないし、1に何をかけても1の倍数にしかなりません。学生の伸びのベースとなる自分の器を、0から1へ、1から2へ増やしていくことで、学生の伸びを飛躍させたいと考えています。

9.おわりに

 さて、今日は初めに、母校の京都橘高校推しでいく、と申し上げました。最後に京都橘に関連して、いい言葉を紹介したいと思います。京都橘高校には、フランスの詩人ルイ・アラゴンの言葉を刻んだ石碑があります。これを「アラゴンの泉」と呼んでいます。そこにはこう書いてあります。

 「学ぶとは誠実を胸に刻むこと 教えるとは共に希望を語ること」

 これ、久しぶりに見ていい言葉だなと思って、色々と調べてみると、原文訳が少し違うようなんです。この言葉は、『ストラスブール大学の歌』というルイ・アラゴンの詩集の一部ですが、大島博光さんの訳では、次のようになっています。

 「教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸にきざむこと」

 この訳と「アラゴンの泉」では、ずいぶんニュアンスが違ってきています。まず、原文から一文目と二文目が逆になっています。さらに、「希望を語る」の前に、「共に」が追加されています。これはどういうことか。多分「アラゴンの泉」では、こういうことを言っているのではないかと思います。「教えることよりも、学ぶことが先にある」。人に何かを教えようと思ったら、まず自らが学ばなければならない。それから、「希望は、一方的にではなく、共に語るものである」。ちょうど今日のこの場のように。
 以上です。どうもありがとうございました。

*1:伊藤彰浩・濱中義隆・居神浩・濱中敦子・八木匡・苅谷剛彦(2013)『大衆化する大学――学生の多様化をどうみるか (シリーズ 大学 第2巻)』(岩波書店

*2:池田輝政(2014)「単位制度と柔軟なアカデミック・カレンダー問題」(大学教務実践研究会第2回大会講演)