松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

ガート・ビースタ(藤井啓之・玉木博章訳)(2016)『よい教育とはなにか:倫理・政治・民主主義』(白澤社)を読了

標記の本を読了した.
もっとも印象に残ったのは,第1章と第2章である.
ビースタは第1章でまず,教育は道具的問い(どのように)ではなく,規範的問い(なぜ)のもとに置かれなければならない,と喝破する.
規範的問いがあって初めて道具的問いが成立するからである.
しかし,現代では道具的問いが優勢になっており,規範的問いが顧みられることが少なくなった.
このことを,「教育」ではなく「学習」という言葉が跋扈していることになぞらえる.
つづく第2章では,「エビデンスに基づいた教育」におけるモデルの不適合,すなわち,「何が「効果的」であるとみなされるかは何が教育的に望ましいのかについての判断に決定的に依存する」(p.52)にもかかわらず,その発祥となった医療行為と近しいものとして教育が配置されていることの違和感を指摘する.
「効果的」であることはあくまでも道具的価値にすぎず,「何のために効果的か?」が常に問い直されねばならないというのである.

第1章 教育は何のためにあるのか?
第2章 エビデンスに基づいた教育:科学と民主主義のはざま
第3章 教育:説明責任と応答責任のはざま
第4章 中断の教育学
第5章 デューイ以降の民主主義と教育
第6章 教育、民主主義そして包摂の問題

ビースタの言う,教育は工学的な営みというよりも,道徳的な実践であるという批判は,得心のいくところもある反面,いくつかの疑問点もある.
たとえば,それはレベルによるのではないかということである.
発達段階の違いということもあるし,政策レベルか,学校レベルか,個人レベルかという差でもある.
焦点を変えたときに,この考え方が常に等価なのだろうかという疑問がある.
たしかに,当為論としてhowよりもwhyが先立つべきということに異論の余地は少ないし,現代はいささかhowが先行しているという批判も妥当だとは思うが,たとえば高等教育で「教育は道徳的な実践だ」と言い切ることができるかと言うと,うまく言語化できないが,やや違和感が残るような気もする.

よい教育とはなにか: 倫理・政治・民主主義

よい教育とはなにか: 倫理・政治・民主主義