松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

大学行政管理学会大学事務組織研究会編(2018)『大学事務職員の履歴書』(学校経理研究会)を読了

読後の感想

標記の本を読了した。最近はうまく貢献できていないが,大学行政管理学会にお世話になってきた自分は買って読まねばなるまいと思ったのである。
大学行政管理学会の「重鎮」9名による回顧録が収録されている。
おそらくこの手の本によくある批判は,しょせんはバイアスバリバリの武勇伝ではないか,というものであろう*1
しかし個人的には,バイアスのかかった武勇伝的なものであっても,自己内省的,エスノグラフィックな「語り」が書籍として残ることにはかなりの意味があると思っている。
書籍になることによって二度と失われないからである。
そして,回顧録であるからこそ,学術論文や講演録にはない自由がそこにあるなという読後感をもった。
やはりいわゆる「第一世代」による強烈な自意識と問題意識の発露が見え隠れするのである。
抜粋&要約すれば,たとえば次のような箇所である。

・新人時代がつまらなさすぎて,三年目には退職を決意した(井原徹「出る杭のいきざま」)
・「単位制度の実質化」をきちんと進めると学生は睡眠時間すら確保できなるはずである。何かおかしい(小原一郎「大学の命は「授業」―私大職員が学んだこと―」
・何もしない人は×,チャレンジしたが失敗した人は〇,チャレンジして成功した人は◎(原邦夫「大学職員縦横四十六年 再建成就に奮闘中」)
・職員の能力を評価するのに,管理職に登用したり昇任させることだけでは限界がある(役職=機能であって,肩書を能力評価に使うべきではない)(福島一政「大学職員人生PLAY BACK」)
・我々世代の存在を脅かす,試され済みの次の世代がそれほど多くいない(同上)
・実践抜きの研究はこの学会の使命でない。これを忘れてアカデミックさに偏重していくのであれば,この学会の存在価値はなくなる(同上)
・専任職員が職員として教員に認知されるためには,学生の教育について深い理解が必要(村上義紀「時の鐘を抱きしめて~ある大学職員の回想~」)

この本を読んで思ったことは,執筆者に比べてなんと自分の小さいことか,ということである。
チャレンジの幅が小さすぎるし,もっと世の中からボロカスに叩かれるレベルにならねばならないと思う。人生は短い。
また,この本のよって知った歴史的事件がいくつかある。
その一つが,1980年に起きたとされる早稲田大学の職員が入試問題を組織的に横流しし,金銭を得ていた入試問題漏洩事件である。
大学の入試問題の管理は厳格すぎるのではないかという疑問を持っていたことがあるが,なるほど,このような歴史的経緯からきているのかもしれないと思った次第である。

横田さんとの思い出

ところで,ぼくは大学行政管理学会の定期総会に2009年に初めて参加したが,そのときに「初めて参加する方向けのワークショップ」なるものがあり,そこで出会ったのがこの本の執筆者の一人である横田利久さんである。
そこで仰っていたことは,職員というのは火中の栗を拾いにいかないといけないんだということや,一緒に働く教員の文化を理解しろということである。
特に後者については,大学のマネジメントに参加することは職員にとってはチャンスだが,教員にとっては「リスクもコストも自分もち」であり,なんなら「研究ができないからマネジメントをするのだ」と言われたりするのだと。
だから研究によって評価されるという教員の文化をよく知り,理解を示せと。そして励まして一緒に働けと。
教員は自分たちの文化を職員に理解してもらえるだろうかという不安を抱えているから,「わかってくれた」というだけで一緒に働きやすくなるとおっしゃていたことを覚えている。
そして,「偉くなっても自分程度にしかなれないんじゃ,今の若い人はかわいそうだ」というニュアンスのことをおっしゃっていたことも。
うまく説明できないのだが,ぼくから見ればすごく魅力があって,以来大学職員として尊敬する人を挙げろと言われれば,横田さんのお名前を出すようにしている。
自分が仕事をする上でかなりの部分を参考にし,模倣している(といって自分は保守的なので,かなり小粒な模倣しかできないのだが……)。
こんな風に「横田さん」などと気軽に呼んでいるが,実際に直接お話ししたことはほとんどなく,ぼくから見れば雲の上の人である。
にもかかわらず,ぼくが広島の大学院に入学したときは,まっさきにメールをくれて,何か困ったことがあったらここに連絡してくれと,ご自身の電話番号を示してくださった。
あまりのありがたさに,すぐに電話をかけて御礼を言った。
横田さんは広島大学高等教育研究開発センターの学外研究員をされていたことがあり,そうした関係者だけに送られる冊子『コリーグ』を見られて,そこに紹介されているぼくの入学を知ってくださったという流れである。
「こっちは研究なんかしてないのにさ,毎年送ってくれちゃうんだよね」と。
それにしても,わざわざ個人的にメールをくださるほど,深いお付き合いはしていないのに大変ありがたかった。
さらにこのあと,東京出張帰りに新大阪でばったり会いお声がけした際も,「やあやあ松宮氏」と気軽にお話くださったことを覚えている。なぜ顔と名前を覚えてくださっているのか,謎としか言いようがない。
「腰が低い」というよりは,完全にフラットである。だからぼくも,できるだけ誰に対してもフラットに接したいと思っている。
そんな横田さんが「大学職員症候群」となづけた典型的な大学職員の問題点を紹介して,この記事を締めたい。

私は,自分を含めて大学とりわけ教学部門の職員はある種の病にかかっている者が多いと思っている。事なかれ主義・前例主義と手続文化,教員・教授会の指示待ちと彼らへの責任転嫁,教員へのコンプレックスとその裏返し的学生対応,サービスよりも学生管理,外に見えにくい組織での職員同士の言い訳しあいとかばいあい,などなどである。私はそれらの症状を職員ムラにはびこる風土病,別名「大学職員症候群」と呼んでいる。それはある意味では必然の病であった。ことに歴史も伝統もある大学では教授会が盤石なため教学部門の職員の役割は限定的かつ固定的である。教授会・教員の指示を待ち,彼らの決定や依頼を前例と所定の手続にしたがって期日までに誤りなく処理していく,それが職員の仕事であった。そこには作業上の工夫はあっても冒険やチャレンジはない。

【参考】
http://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/projects/tokaiken/paper/separate/23/23-08.pdf

JAIRO | 講演「改革推進の担い手となる中堅・若手職員に向けて : 私が気づき学んだこと伝えたいこと」


大学事務職員の履歴書

大学事務職員の履歴書

 

*1:山本忠士氏の論稿では,冒頭にこのことに関する懸念が示されている。