松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

ブログをしていると自己紹介が省略できる。が……

ブログをしていると自己紹介を省略できるというメリットがある。
これは,サッカー選手が自分の特徴を映像に編集し,色々なチームに情報として提供し,自身を売り込むことに少し似ている。
たくさんの人と一緒に働くときに,自分のことを1から理解してもらう時間を確保するのは難しい。
これが学生時代であれば,「クラス」や「コース」を単位として,1年くらいかけて理解してもらうことは可能だった。
だが働く身の上ではそれは無理である。単純に時間がない。
にもかかわらず,働く上では学生の頃よりもずっと,自分を理解してもらうことは重要である。
その人のプレースタイルがわかって始めて,使いどころがわかるからである。
ブログをしていることは,この葛藤を解消する一つの手段になりうる。
文は人なり」とはよく言ったもので,文章は良くも悪くも人間性をごまかしにくい。
そして今の時代,知り合った当初,多くの人は名前を検索して個人を理解しようとする*1
したがって,ほとんど時間をかけず,自分という人間を理解してもらうことが可能である。

一方,デメリットもある。
この手法は,自分を商品として売っていくような面がある。
それゆえ,本来の自分*2と,他人から見た自分が乖離しているように感じ始める。
人から観察されたイメージと,自己認識の乖離が大きくなるのは苦しいし消耗する。
文章に人間性がにじみ出てくるのは事実だと思うが,それでも文章だけで人間の全てが説明できるわけもない。
それに,人格的交流という意味では,互いの情報が0の状態から双方向に時間をかけることにも意味がある。
情報が非対称で,自己開示は100,他方で相手のことはほとんど知らないという状態からのスタートは,交流する前に先入観を与えすぎる。
加えて,自分のように積極的に氏名を公表することは勧められない。
なぜなら,氏名公表のカードは一度切ると二度と戻せないからである。
「どうせいつか死ぬし,いいや」と諦めているが,実名カードを切って得られるメリットは,デメリットに比べて大幅に少ない。
事実,ちきりん氏や藤沢数希氏等,いくら有名になっても実名を公表しない方もいる。
それは,実名を公表しても得られる果実が少なすぎるからである。
周囲の誰にも知られていない自分という存在を評して,浅田次郎は「任意のひとり」と呼び,「任意のひとり」になれるから旅が好きなのだ,と言った。
少しずつ,「任意のひとり」になるのが難しくなってきたし,それが自分の希望であったかというと,そうではない。
できれば自宅で本を読んだり映画を見たりして,静かに暮らして人生を終えたい。

*1:自分の名前がオフィシャルに出たとき,このブログのアクセスが上昇するので,初めてその人と遭遇したとき,まず名前を検索する人が多いのだろうなと思っている。

*2:「本来の自分」など存在しない,と言われればそれまでだが。