松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

神戸学院大学,佐藤雅美新学長のご挨拶から​考える――支援対象の学生像を捕捉するとい​うこと――

佐藤先生のご挨拶について

7月13日に,岡田豊基先生から佐藤雅美先生に,勤務先の学長が交代しました。
ご挨拶がホームページに掲載されていますので,もしよろしければご高覧ください。
http://www.kobegakuin.ac.jp/gakuho-net/infocus/2016/07.html

このご挨拶の最も重要な部分は,一番最後のところだと私は思います。

 ところで、私は30年近くの本学での教育経験から、今も昔も変わらない本学の学生の典型的な傾向は、総じて素直で真面目でありながら、自己を過小評価しがちなところであると感じています。しかし、このことは裏返せば彼らには大きな「伸びしろ」があるということでもあります。この「伸びしろ」に徹底的に働きかける教育を展開し、学ぶことの喜びと自己の多様な可能性に気づかせる。そして、様々なことへのチャレンジを通じて、1人でも多くの学生諸君が4年間(あるいは6年間)で大きく成長できた、思った以上に成長することができたと実感して社会に旅立ってくれるような教育の在り方を追求していく。そのことが、社会に貢献できる人材の輩出につながり、本学が地域社会から必要とされる存在価値のある大学であり続ける上での重要な条件であると考えています。


伸びしろですね!

さて,このように,支援対象である学生像を捕捉するということは,きわめて重要なことです。
佐藤先生の場合は,
・総じて素直で真面目である一方,
・自己を過小評価しがちである,
という捕捉をされています。
そして,自己を過小評価しがちだから,自分の「伸びしろ」に気づいていない。
この気づきを与えることが教職員の役割だと仰っているわけです。

なぜ,自己を過小評価してしまうのか

ではなぜ,私たちの学生は自己を過小評価しがちなのでしょうか?
「自分はできない」と思い込んでいるのでしょうか。
私なりに考察すると,この理由は大きく,
①過去に勉強をする習慣がなかった
②勉強をしたけれども,結果が残せなかった
のいずれかにあると考えています。
過去に勉強をする習慣がなかった流派は,マイルドヤンキー的な環境にあって,自分たちは元々「頭が悪い」「勉強ができない」と自認しているが,大衆化の中で大学進学を選んだ学生たちです。
勉強をしたけれども,結果が残せなかった流派は,進学を後押しする家庭環境や学校環境にあったにもかかわらず,本学よりも威信の高い大学*1に落ちて入学した学生たちです。
この2つの流派は,決定的に違います。したがって,流派によってアプローチも変えなければなりません。
前者の流派には,あらゆる局面で,「君たちはできる」ということを気づかせていくことが必要です。そのためには,ちょっとムリ筋のチャレンジを意図的にさせることが効果的です。もちろん,その結果として失敗もしますが,全部が丸々失敗ということはありえません。前者の流派の「伸びしろ」に働きかけることは,そんなに難しくないというのが実感です。
一方,実は難しいのは,後者の流派です。
彼らは,往々にしてプライドが高すぎることがあります。自分の力を高く見積もりすぎている傾向にあるからです。
そのため,前者の流派に対して,「自分とあいつらは違う」と思ったり,極端に表現すれば,「自分は受験に失敗したのであって,本来はこんなところにいるべき人間ではない」と思ったりしています。
しかしながら,受験に失敗ということはありません。入った大学がその人の実力である,ということをまず自覚しなければなりません。
すなわち,「自分には力がなかったのだ」「自分が思うほど,努力をしきれなかったのだ」といった謙虚な自覚をまず知らなければならないのです。
何よりも恐ろしいことは,そうしたおかしなプライドをもったまま大人になり,一生18歳のときの学歴コンプレックスを背負って生きてしまうことです。
そういう人は,多くの場合18歳までの勉強が勉強の全てだと思っているがために,大人になってから学ぶということをしないからです。
本学の場合は,後者の流派よりも前者の流派の方が,割合としては多いと思っています。
なので,本学の多くの学生の「伸びしろ」に働きかけることは,そう難しくないと考えます。
むしろ,我々より威信の高い大学の教職員はより難しい状況にあるでしょう。
威信の高い大学では,前者の流派はあまりいませんが,後者の流派が相対的に増えます。
加えて威信の高い大学には,実は大した力もないのに,大衆化の中でその大学に進学できてしまった,これまたプライドの高い学生という第三の流派が誕生したりもしますので,仕事としては難しすぎます。

教職員が学生像を捕捉するということ

以上の学生像はあくまでも私が考えるそれであり,必ずしも正しいとは思いません。
しかしながら,「あなたの大学の学生はどういう学生ですか?」と問われて,自分なりの学生像を語れることが重要だと思います。
そうした問いを投げかけたときに,どれだけ語れるのか,ということで,その人の実力を測れると考えます。
また,「うちの学生はどういう学生か?」というテーマで,教職員が語り合えるということも大切です。
以前飲み会で,「うちの学生は,多かれ少なかれ傷ついて入学してきている」という学生像をある先生が話していらして,
この方は間違いなく学生を熱心に見ている人だな,と嬉しくなったことがあります。
同僚の噂話より,学生の噂話を。
それができるかどうかが,教職員としての力を規定すると感じています。

*1:●ここでいう「威信」というのは偏差値や歴史的伝統のことです。私自身も,こういった方針で進路選択がなされていることには賛同しませんが,現実はまだこのとおりですので,現実に合わせた議論をしています。