松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

能力のある人には,それを社会の中で発揮する責任がある

能力のある人には,それを社会の中で発揮する責任がある。
少し前にも書いたが,能力にはどうしても個人差というものがある。それは仕方ない。
しかしながら,個人差の有無はともかく,そのもっている能力をベストを尽くして発揮しているかどうか,は問われるべきである。
自分の力の100%を尽くしたかどうかということである。
特に能力の高い人はそうである。
なぜなら,能力が平均より高い人は,手を抜いても平均以上にできたりするからだ。
あえて手を抜いて楽をしつつ,失敗が起きた時に「やっぱりな。そうなると思った」と言うことも可能である。
なんなら,その方が楽なので,むしろそうした方が合理的であるとすら言える。

能力の高い人の中には,結果的に恥をかくことや,試行錯誤して汗をかくことや,苦しむことを嫌う人がいる。
手を抜いても,それなりにできるんだからいいじゃないかと言う人がいる。
それは確かにそのとおりである。
働いて給料をもらうという意味では,平均レベル以上のことをやっていれば,それで十分であろう。
一生懸命頑張っても,能力的に平均に到達しない人もいるのだから,手を抜いていようがいまいが,結果が平均レベル以上なら問題ない,という考え方に間違いはない。
誰からも文句も言われないだろうと考えられる。
一方,そういう人ばかりでは困る,というのもまた事実である。
能力の高い人がみんな利己的に,合理的に行動し始めたら,世の中は立ちいかなくなる。
能力があるからこそ,犠牲を払って世の中に貢献してもらわないと困る。
それをしないなら,その人の能力はその人自身を幸福にするものでしかなくなってしまう。
社会全体の発展は誰が支えるのか,ということになる。
その点について他人任せの人が増え始めたら,どうしようもない。
能力の高い人から率先して,社会全体の幸福を分担して考える必要があろう。

以上のことから,
能力の高い人が手を抜くというのは,バレにくいだけにより一層恥ずかしいことだと考えている。
能力の高い人のその力は,その人個人の努力のみで手に入ったものではない。
家庭環境や,周囲の応援,社会の支援等,さまざまな「周りの力」で成り立っている。
したがって,彼らはその能力の高さを,社会や周囲や家庭に還元していくという責任を負っている。
その責任を果たすことなく,手を抜きつつ冷笑し,物事を批評するだけの立場に身を置くほど,恥ずかしいことはないと思う。