松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

意識高い系と思われるのは不利

ここ最近、再び「意識高い系」という言葉を見るようになった。
この言葉は常見陽平氏がその著書の中で示した概念で、端緒は3,4年前になる。

近頃、大学生とその界隈を中心として、この「意識高い系」という言葉についてさまざまな議論がある。
おおまかにいえば、「頑張ってるやつを意識高い結果として見下すショボい日本社会」というような論調が目立つ。
常見氏が、言動だけが派手で実力の伴わない人のことをそうネガティブに定義したことの、いわば揺り戻しが来ているように思われる。
私が敬愛する人物のひとりである駒崎弘樹氏も、「若い人は意識が高くて当たり前。おっさんの言うことは無視しろ」という趣旨のことを仰っている。

たしかに、このような論調には一理ある。
十把一からげに、意識が高いやつだとくくることはやはりセンスに欠けるであろう。
しかしながら、やはり「意識高い系」と認識されることは、基本的には避けた方がよい。
というのも、人の思い込みは伝播していくので、誰かが「あいつは意識高い系だ」と言っていると、その評価が伝染する可能性があるからである。
ここでは、いかにして「あいつは意識高い系だ」という評価から逃れるか、という戦略が必要になってくる。
個人的にそのために必要なのは、

1 しんどいことに対するスピード感

2 しんどいことで約束を守ること

の2つであると考えている。
「意識高い系」と揶揄される人の特徴を見ていると、しんどいことにスピード感をもって誠実に対処することが苦手なように見える。
自分の関心のあることには素早く反応するが、ひとたび苦しい状況に追い込まれると連絡が途切れがちになるケースである。
人間、興味関心のあることにスピード感をもって誠実に対処するのは当たり前である。
一方、誰もが逃げたくなるような場面、いや〜な場面、追い込まれるような場面で、そのことができるかどうか。
そうしたときの姿勢はたいてい見られていて、苦しいところでこそ頑張れる人は、あまり「意識高い系」と揶揄されることは少ないように思われる。
もちろん、自分自身いつでもスピード感があるわけでないし、いつでも約束を守っているわけでもない。
ただ、本当に苦しい局面では、上記の2つをできるだけ大事にしている。
そうして「意識高い系」という揶揄から戦略的に逃れないと、中にはやりにくい仕事もあるのである。