松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

人には,誰しもその人なりの「学びたいタイミング」というものがあるのではないか?

現在のわが国の教育制度は,18歳までにたくさん勉強することが前提に組み立てられている。
18歳までの勉強の成果を大学入試選抜で計られ,威信(偏差値)に応じた大学に進学することとなる。
もちろん,現在では間口が広がり,特に私立大学においては学力層のレンジが広がってきたと考えられる。
さらに,読売新聞による「大学の実力」調査や,NPO法人NEWVERYによるWEEK DAY CANPUS VISITなど,「偏差値によらない大学選び」も志向されるようになってきた。
しかしながら,大きな枠組みとしては従来の威信による選抜が効いていることに,あまり異論はもたれないであろう。
「学歴フィルター」の言葉が象徴するように,いわば学生生活のゴールであるところの「就職」でやはり未だに効いているという事実から,認めざるを得ないことである。

ところで,この仕組みには大きな問題がある。
それは,人生の前半に勉強することが求められる点である。
特に,13歳~18歳くらいの,かなり限られた時間に勉強しないと,制度のうまみを甘受できない。
何をもって勉強と考えるのか?というのは難しいところだが,ここでは初等中等教育で行われるような,座学中心のものと想定してほしい。
20歳になってから勉強してくなる人,30超えてから勉強したくなる人,還暦を迎えてから勉強したくなる人。
色々な人がいていい。大切なことは,学びたいと思ったときに学べること。そして,学びが評価されること。
だが,現実はどうだろうか?
誰しもその人なりの「学びたいタイミング」というものがあるのではないか?ということがほとんど考慮されていないのではないか。

ぼくがこのようなことを考えるようになったのは,今の仕事がきっかけだ。
かつて,何度も留年して「大学を辞めたい」と言っていた学生がいた。
彼は,大学の,その学部の勉強にどうしても関心がわかなかった。
一方,ついてみたい職業が目標としてあった。その職業は,必ずしも大卒であることを求めていないので,ますます勉強する意味がわからなくなっていた。
そして,保護者の方から「大学くらいは卒業してほしい」と言われて,板挟みになっていた。
その時思ったのは,彼がそういうことに悩んでいる,それ自体,彼の真面目さを示唆しているということだ。
彼は,いつか自分が学ばなければならないと思ったら,必ず自力で学ぶことができる力をもっていると考えられた。
タイミングが今でなかっただけの話。
目標であった仕事についたら,その生粋の生真面目さから,いつか学びの必要性を感じるときがくることが容易に想像できた。
こういう人を救えるような多様性が,わが国の教育制度にはあまり用意されていない。
13~18歳までの間,思考停止的に勉強をする人よりも,もしかしたらずっと立派かもしれないのに。