松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

仕事で博士論文の公聴会の事務手続き等をしている

仕事で本学人間文化学研究科研究科の博士論文の公聴会にかかわる手続き等をしている。
今年は例年になく、論文博士も含めて5名の方の学位授与がかかっている。
既に4名の課程博士の方の公聴会を終えたが、大変勉強になった。
どのような分野であれ、それが研究である以上問われることは共通しているので、仕事であるにもかかわらず、仕事外である大学院生としての身分にとっても、いい機会となった。

「そこまでしなくていいんじゃないのか」という批判もあるかもしれないが、公聴会には2時間なら2時間、フルで出席した。
研究のキャリアとして先輩であっても、自分にとっては同時に大事な学生さんでもある。
どうしても、兼務という脆弱と言われても仕方がない、しかし我々の規模の私立大学ではごく当たり前の事務体制にあっては、
このように、せめて彼らの晴れ舞台にフルで出席する、そのことによって少しでも場を盛り上げることで貢献するしかないと考えた。
ふだん、どうしても学部生ばかりを優先してしまって、大学院生のことは後回しになっている気がする、という反省もある。
幸い、大学院生は学部生と違って人数が少ない。
だから、このように彼らの活動が見える場に出席する、ということが全員に対してできるのだ。

ところで、何も身内アゲするわけでもないが、このように勤務先の大学で博士の学生を指導され、学位が授与される段階まで持って行かれる先生方には本当に頭がさがる。
私の母校であった大阪教育大の先生は、ゼミの人数は最小で0,最大でも5だった。
授業負担(この言葉は好きではないけれど)は、おそらく通年で4コマ程度ではなかったか。
一方、今回対象となった研究科は、学部のゼミ生は15人以上、授業は通年15コマくらい?大学院科目を入れればもっと多いかも。
このような状況の中、博士の学位を輩出するというのは並大抵のことではないと思う。
博士の学位論文というのは、原則的には公開されていて、国としてと一定の質が担保されている。
また、学生の側も、もしかしたらその分野でより威信の高い研究科に移っていくこともできたかもしれないのに、あえてとどまられるというのは、やはり指導された先生との信頼関係が大きいのだろう。

そのようなさまざまな苦労というのは、やはり場を同じくするから体得できるのではないか、というのが自分の感想である。
そのことがどう仕事に生かされるのか?と問われると明確に答えられないが、絶対に違うはずだと考えている。