松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「ユーチューバーになれる学部」という発想のあほらしさ

昨年末だったか、東洋経済オンラインの記事で、就職を意識した高校生のための進路相談と題して、「Youtuberになるには、どんな学部がいいのか」というものがあった。
端的にいえば、ユーチューバーになるには情報系の学部に行った方がいいのか?という相談であった。
これに対する回答を大学ジャーナリストの石嶺氏が行っていて、彼は「情報系の学部に行く必要はない」ことを簡単に述べた上で、むしろユーチューバーを職業にすることの問題を重点的に論じていた。
個人的には、ユーチューバーという職業のリスクや将来性については、あまり関心がない。
まあ、たしかにそういう問題点はあるかもしれないが、未来のことは誰にもわからないので、無責任に発言することは難しい。
むしろ私が気になったのは、前者の「どの学部がいいのか」という相談だ。
誰が考えてもわかることだが、ユーチューバーになろうと思えば、別に今すぐにでもなれる。
ユーチューバーになるには。。などということを考えている暇があったら、目の前のパソコンを使って今すぐ放送をしてみればいいのだ。
それですぐにでもユーチューバーになれる。その瞬間からもうユーチューバーだ。
わざわざ準備するほどのことはない。
「ユーチューバーになるために」とはなんだ。一体それはなんの準備なのだ。
なろうと思えば今すぐなれるものを、わざわざ先延ばしする理由はなんだ。

ところで、これはケースがユーチューバーなのであほらしさが際立つが、これに限りなく近いことは日々の生活の中で溢れている。
こういう条件が整ったら、いつかやろう。
何々をする前に、まずはコレコレの資格をとって。
したいアレをやるまえに、まずはこういう力をつけてから。
そして、「いつか」そのときがきたら、万全の体勢でチャレンジしよう。
だが、その「いつか」は永遠にやってこない。
力があるからできるようになるのではない。
やって初めてできるだけの力がつくのであり、やってもないうちにつく力は大したことない。
このような思考で前へ進むためには、少々の批判や雑音を無視する必要がある。
なぜなら、最初は絶対に不十分になってしまうからだ。
この不十分さを受け入れる、言い換えれば自分のダメさを許容できる胆力や度胸、あるいは諦めがないと、なかなか前に進むことは難しい。

とはいえ、口で言うのは簡単である。
自分のダメさを真正面から見つめるのは辛い。
しかしそれがあって初めて前進できると考えている。