松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

個人の能力にはグラデーションがあるということを真面目に考えれば、報酬は雇用形態ではなく職務や生み出す価値で決定されるべきであるという発想に自然と行き着く

いわゆる大学職員の高度専門職論などにおいても、見逃されがちなんじゃないかと思うのがこの点です。
個人の能力にはグラデーションがあります。
その心は「明確な差があって、しかもわかりにくい」ということです。
ここで言う差には、量的なものと質的なものがあります。
量的なものは、比較的わかりやすいかもしれません。
たとえば、仕事のスピード。
ある人はめちゃくちゃ早くて、ある人は遅い。これは量的な差です。
あるいは、何かを生産する。
1時間あたり、ある人は10個作るのに、ある人は1個しか作れない。
これは、生産性という量的な差です。

では、質的な差はどうでしょうか?
あまり論じられることはないのではないでしょうか。
誰しも、得意なことと苦手なことがあります。
ひたすら黙々と作業をしていたい人もいれば、常に変化をつけたい人もいます。
その両方の組み合わせが好きな人もいます。
要するに、なんにでも得手不得手があるということです。
Aという仕事は、ある人にとっては簡単でも、別な人にとっては難しいということは、当たり前にありうることです。

こうした、「個人の能力にはグラデーションがある」という現実を目の前にして、1か0か、というラベルを人に貼っていくのは困難です(たとえば、高度専門職か否か、といったような)。
本来であれば、まさしく同一労働同一賃金、1つひとつの仕事(これは職業ということではなく、業務の意)に値札があって、それを達成した人に値札分の報酬が支払われる、という状態が健全ではないでしょうか。
個人の能力にグラデーションがある以上、その個人を相対比較しながら値札をつけていくのは、非常に難しいことです。
仕事(業務)に対して値札が貼ってあれば、自分が獲得した業務の市場価値の総和よって、報酬を決めることができるので、働き方もその時々によって決めることができます。
たとえば、給料が下がってもいいからちょっと休みたいな、今はそういう時期だな、という人生の判断も可能なのです。
ただし、ここでいう業務の値段というのは、その人の得手不得手とは無関係に決まってしまいます。
仕事の市場価値というのは、乱暴にいえば希少性と需要によって決まってくるので、「需要が多く、希少性も高い」業務の値札が、必然的に1番高額になります。
これはいたし方ないことでしょう。

では、なぜこのような身分起点の議論になってしまうのか。
それは、やはりわが国が解雇規制の強すぎる、正社員が守られすぎている社会だからでしょう。
これはそのほとんどが法律の問題です。
現在では、働く人の半分が非正規雇用だと言われていますが、この正規-非正規という枠組みそのものが問題です。
なぜなら、これは能力にグラデーションのある個人に値札をつける発想だからです。
誤解を恐れずに言えば、いわば現代の身分制度のようなものです。
むしろ、「身分制度があるんだよ」とはっきりとうたっている、過去や他国の身分制度よりもタチが悪いかもしれません。
表向きは民主社会で平等なのに、その裏側で陰ながら身分制度が存在している、という世の中はいかがなものでしょうか?
ふつうに考えれば、モラルハザードが起きてしまうでしょう。
何しろ、生み出す価値よりも既得権としての身分が優先されてしまうのですから。
これは、異常なまでに組織に縛られる結果になるという点で、正社員にとっても、本当は辛い状態なのです。
正規雇用か、非正規雇用か、といった身分ではなく、その人は何ができるのか、というアプローチで仕事を考えられる世の中に、早くなってほしいと願っていて、「そうなった社会」にいるつもりで働いているというのが、今の自分の意識です。