松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「書くこと」の原体験

「書くこと」の私の原体験は,たぶん小学生の時に遡る。
それまでも,読書はしていた。
しかしながら、「書くこと」にはそれほどの関心をもっていなかったように思う。
ところが,あるとき作文を先生に褒められ,家族に褒められしたときに,「書くこと」の面白さを知ったのである。
ただ,褒められたのには理由があった。
その少し前に,『漫画ドラえもんで学ぶ!上手な作文の書き方』的な本を読んでいたのである。
残念ながら,正確なタイトルを忘れてしまったのだが……。
要するに,そういったハウツー本を読んで,そのとおりにしたら褒められた,単純にスキルを学んだことによる成功体験だったのである。
えらいもんで,小学生くらいのときに褒められたことというのは,すごく覚えていて,その後の自信に繋がる。

このハウツー本に書いてあったことは,今でも強烈に記憶にある。
具体的には,次の2つだ。

①初めの一文が大事

作文では,初めの一文が最も大事である,ということが書いてあった。
最悪なのが,「何月何日,どこどこにいきました,その場所はこうでした,楽しかったです」的な文章であって,時系列的に書くな,ということがあった。
ではそうすればよいのか?
小学生のときにこのハウツー本から援用したのは,「会話から始める」という,テクニックである。
「おい,まじかよ!」
このような一文で始めるのである。
そうすると,冒頭から目を引くことができる,というハウツーであった。

②優等生にならない

「優等生作文」もダメ,ということが書いてあった。
つまり,文章としては崩れていなかったとしても,自分にしか言えないようなことがそこに入っているのか,ということであると理解した。
命にかかわる作品を読んで,「命は大切にしなければならないと思いました」といったことを書いたり,楽しい経験をして「とても楽しかったです」などと書いても,全然意味がないのである。
これは,今になっても生きていて,報告書を書くとき等に未だに意識している。
その人独自の意見や価値観がなければ,読む側は面白くないので。


以上が,自分の「書くこと」の原体験である。
以来,「書くこと」については,他の人よりできるのではないか,と考えてきた。
ただ,今思い返せば,それは勘違いであった。中高生の頃は,随分へたくそな文章を書いてきた。
たくさん読んでいる,ということと,文章が書けるということは,あんまり関係ないなという実感をもっている。
でも,こういった原体験があるから,このように1日1記事ブログにアップするのも,さして苦にならないという,今に繋がっていると思う。