松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「大学院で何勉強してんの?」

年末年始に何度か受けた質問である。
これに対する答え方にいつも迷ってしまう。

「大学のことやで〜」

「教育学研究科やから、まあ教育やな」

「教育学の中の高等教育論っていう分野です」

なんとなく、上記の3つのうち、いずれも浅薄すぎる気がするのである。
「どんなことをやっているの?」と聞かれて、端的に答えられないようではまだまだだなと思う。
この質問は、学生時代の友人等に限らず同業者からも受けることがあって、相手にもよるがやはり同様に迷ってしまう。
要するに、何と言ったとしても不正解になるような気がするのである。

そして、上記の答えを口にすると、大体「何が目標なん?」「なに目指してんの?」というような質問を重ねて受けることになる。
これに対する答えも本当に難しい。
特に何かを目指しているわけではないからである。
かといって、ただ楽しいからやっている、というわけでもない。
楽しいことよりもむしろ、辛いことや苦しいことの方がずっと多い。
一方で、その先に何かを見据えて、なんらかの目標や目的があってやっているわけでもない。
「修了したら問われるようになる」と指摘されたこともあるが、とにかく今に集中する、ということでなければ、モチベーションを保つことは難しい。

ということで、

何をやっているのか自分でも説明できない部分がある

その先に、何かを見据えているわけではない

という状態に今の自分はある。
おそらくは、自分が何をやっているかくらいは説明できた方がよいのだろうし、これだけの時間的・金銭的コストをかけているからには、その先に何らかの成果を見据えていた方がよいのだろう。
しかしながら、今はこうした曖昧な状態も大切にしたいと考えている。
白黒はっきりと、AかBかで説明し尽くせることの方がむしろ少ない。
たしかに、プレゼンテーションやアピールの場ではそうしたことは必要になるが、今の自分に必要なのはそういうことではなくて、
清濁併せのんで、曖昧なことを曖昧なまま保持しておくことのように感じる。
曖昧なことを曖昧なまま保持しておくことは、比較的勇気のいることである。
とりあえず答えを出してしまった方が楽だとは思う。
だが、今の自分にはそれは必ずしも必要な態度ではない。
日々の生活の中で、何かが曖昧なまま放置されていることに苦しさを覚えることもあるが、ある程度仕方ないと割り切ってやっていくしかなかろう。