松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

Between(2015年12月-2016年1月号)特集:広がる成長支援の担い手~「職員」の力を生かす~を読んで―教員,職員,高度専門職といった身分アプローチの限界―

先日,標記の特集を拝見した。
感じたのは,「教員,職員,高度専門職といった身分アプローチの限界」である。
求められているのは,「仕事アプローチ」ではないか,という風に思った。

「あなたは教育者である」と「私は教育者ではない」の根っこは同じ

たとえば追手門の秦副学長は,この特集の中で次のように仰っている。

 筆者が驚いたのは、SD研修などで職員に「あなた方は教育者でしょう?」と問いかけても「われわれは教育者ではない」と回答する人が少なからず存在することだ。SD研修では常に「職員は教育者ですよ」と伝えている。そのような職員がいる一方で、研究者意識のみが強い教員ばかりがいたら、学生本位の教育改革やFDを進めることは容易ではない。

まず,このご意見の趣旨については,個人的には首肯する部分も多い。
しかしながら,アプローチに疑問がある。
すなわち,「あなたは教育者である」という発言と,「私は教育者ではない」という発言の根っこは同じではないか,と考えるのである。
この2つの発言は,いずれも「自分が何者か」というところを基点にしている,身分アプローチなのである。
いわば,身分を基礎としながらその境界を融解させたり,変容させたりするアプローチである。
「自分が何者か」を基点にすると,「私はこういう者だ」「いや,私はこういう者だ」という自分に着目した議論になってしまって,うまくいかないことも多いのではないかと思う。
必要なことは,「私たちはこれをしたい」という仕事アプローチなのではないだろうか。

「教育」という言葉は扱いが難しい,さらに曖昧な言葉で考えてはどうか

仕事アプローチを阻むものはなにか。
私はそれが「教育」という言葉だと思う。
「教育」という言葉は難しい。ふつう,多くの人は自分自身が学校教育を受けてきている。
このため,「教育」とはどういうものか,それなりのイメージを各人がもっている。
したがって,自身のもっているイメージ,特に,指導―被指導というモデルは,多くの人の頭の中にあるであろうから,それに基づいて議論をすることになる。
このとき,「あなたは教育者ですか?」と聞かれて,「はい!私は教育者です!」と自信をもって答えられる大学職員が少ないであろうことも理解できないだろうか。
では,このように言われたらどうだろう。
「あなたには,学生の可能性を伸ばすことに,直接的あるいは間接的に貢献する役割があると思いますか?」
これに対して,「いいえ!」と答えることは,大学の職員として許されるだろうか。私は許されないと思う。
このように,「教育」という言葉はあまりに扱いが難しいので,さらに曖昧に,ふわっとした言葉で表現してみてはどうだろうか,というのが個人的な現実解である。
たとえば,「学生の可能性を伸ばす」といったように。

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