松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

シンポジウム等で録音をしている人

シンポジウム等で録音をしている人をしばしば見かける。
先日の課程認定説明会でもそうであったし,全私教協等でもそうである。
机があれば録音機器を置いている人もいるし,机がなければポケットに入れている人もいる。
ところで,このような状況というのは,登壇する立場からすると,「お,録音されておるな」というのは,録音している方が机の上を機器を置いていたりなんかすると,よくわかってしまう。
これについて,「いやだな」と思う人もいるかもしれない。
録音されていたら,ちょっと守備的にいこう,という登壇者もいるかもしれない。
なぜなら,それによって言質をとられたことになり,「あのときお前はこう言ったじゃないか!」と言われる可能性は,ゼロではないからである。
だが個人的には,あまり気にならないというか,録音されていようがいまいが,発言内容を変えることはない。
もちろん,変なことを言ってしまって,それが後々保存されるということには,ちょっとした恐怖を覚えるものの,実際のところそれを理由に責任をとらなければなるようなことは,基本的にありえないだろう。と思っている。
録音するときは,「録音していいですか」と聞くか,机上にはっきりと置くなどして,録音していることが周囲から明らかにしておくことがマナーかな~とは思うものの,録音されること自体はあまり気にならない。

むしろ気になるのは,録音した方は,それをいつか有効に使うときがくるのであろうか?という点である。
仮に,報告書等を作成する際にそれを聞き返すのだとしたら,参加して費やした時間と全く同じ時間数を,報告書作成に費やしてしまうことになる。
それではあまりにも生産性が低い。
何かあったときに聞き直す?そんなことあるだろうか。長時間録音したものを聞き直すのは,結構面倒である。
何かあったときの「何か」ってなんだろう。質的に分析する?そこまではしないだろう。
つまり,ああいった場で録音している方というのは,「なんとなく」「不安だから一応」てな感じでいらっしゃるだけで,実際にはそのデータはほとんど使われていないのではないか,というのが私の仮説である。

大切なのは説明されている内容であって,具体的な文言ではない。
具体的な文言を詳細に記録しなければならない場合もあるかもしれないが,非常に限定されるだろう。
(たとえば,政府の会議等は一言一句公開されるものがあるので,録音しているだろう)
そんなわけで,録音されることは気にならないものの,録音するという行為にはわりと疑問をもっている。