松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「お前はthinkばかりでdoがない」

これは,高校生のときにお世話になった先生に言われた言葉である。
さらに,この前段階として,「高校生のときから変わっていない。悪い意味で」という言葉もあった。
それがちょうど,3年ほど前の話である。
以来,とにかくdoを気にしてきた。果たして自分は変われたのだろうか。
実際のところ,自分ではよくわからない。
変わったことも変わらなかったこともあるような気がする。
一方で,あまりにもdoに偏りすぎてきたのではないか,という気もする。

たしかに,自分の環境はいろいろと様変わりした。
doをすることでthinkに繋がってきたことも数多い。
しかしながら,それは本当の意味でのthinkなのだろうか,という疑問がある。
走りながら考えるといえば聞こえはいいが,自分は本質的にそうした器用なことができるタイプではなかった。
ずいぶんとさまざまな無理をして,doに注力しているのではないか。
その代わりに,捨ててきたものがずいぶんあるのはないか。
自分の価値は,おそらく大学職員としてはほぼ高止まりした。
これからも伸びるだろうが,予測の範囲内に収まり始めたことを感じている。
それが自分の中での「高止まり」の定義である。
たとえこのあと部署異動どのような仕事をしたとしても,今とまったく同じレベルの成果は,最低限出せるだろう。
予想のつかないゾーンに行けるかどうか,というのは,職業人としての価値以外のところで決まってくるように思う。
その意味で,ここ3年間は職業人としての価値を高めてきた時間であったが,少しここらで,再度考える時期に来ているかもしれない。

「何を」考えなければならないのか,ということの答えはまだない。
が,はっきりしていることは,もう少し生活を整えなければならない,ということだ。
あまりにも乱れているし,その結果として疲れている。
基本的な日々の生活というものに対する態度の厳しさを,もう少し取り戻さなければならないと思っている。