松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

学生のルサンチマンを,前向きなエネルギーに変えることが自分の仕事である

多くの大学生は,入学した時点でルサンチマンを抱えている

学生のルサンチマンを,前向きなエネルギーに変えることが自分の仕事だと思っている。
勤務先は神戸学院大学という私立大学であるが,学生の中に学校生活の勝ち組は少ない。
これは特別な現象ではない。
というか,一部の銘柄大学以外では,ほぼ例外なくどこかの大学に落ちたり,必ずしもいい思いを学校生活でしてこなかったり,といった学生を抱えることになる。
したがって,入学した時点で何らかの後悔をもっていたり,「本当は来たくなかった」と思っていたり,要するにもっと別の道があったのではないか,というようなルサンチマンを抱えているのが学生の多数派となる。
何度も言うがこれは特別なことではなく,本当にごく一部のトップとされる大学以外(いや,たとえそういう大学であったとしても),そういう学生が多数を占めている。
このため,学生がそうしたルサンチマンを抱えているということを所与のものとして,仕事をしなければならない。

どういう気持ちで接するべきか

こうした学生に対して行う最悪の対応は,「バカにすること」であり,「お前たちはダメだ」と言うことである。
「言う」というのは,何も言葉での表現のみを指しているのではなく,教職員の態度や,公式・非公式な制度の状態も含まれる。
制度の問題は以外と根深く,「学生はできない」という前提で設計されていることがあって,そうであれば不思議なことに学生の側にも「自分たちはできないんだ」という意識を醸成しかねない。
ではどうすればよいのか,というとその逆である。
「君たちはできる」と言い,それを前提とした公式・非公式な制度を設計し,あらゆる角度からエンパワメントすることである。
以上のような価値観をもっているので,以下のブログに引用されていた福山市立大学の先生のコメントには,かなりの違和感をもった。ameblo.jp

今の大学というのは、ほとんどの教師にとっては、寂しい場所だ。なんで、寂しいかというと、学生さんたちに知的好奇心とか知識欲というものがないから。
受験勉強はしたし、大学に入れば試験勉強はするし、レポートの締切日は守るけれども、自分で何か勝手に勉強するということはない。図書館に行かない。書店に行かない。本は買わない。読書はしない。
これが、今の大学生だもん。何をやっているのか、サッパリわからない。
私の勤務先は公立大学だけど、読書が習慣の学生なんてほとんどいないよ。ほんとだって。冗談じゃないって。

公立大学で、こういう状態ならば、もう日本中の大学があかんのだろうか。
というか、知的生活を目指している大学生なんか、日本の全大学生の2割もいないんだろうなあ。まあ、がっかりとすることもないのか。
ほんとに、いろんな意味で、やる気が失せる秋だ。でも、そんなものかな。学生だと思っちゃいけないのかもしれない。自分とどこか志を同じくする知的仲間だとか金輪際思っちゃいけないのかもしれない。お客さんだと思えば、いいのか。
お客さんは神様です。
神は死んだ。

現在の日本の大学生は、昔の中学生みたいなもんだ。そう思って粘り強く、何度も親切に繰り返し、かつ軽やかに説明すべきだ。
今の子は、ほんとに軽々しく育っているからな。重いものはダメだ。重厚という価値観はない。ほんとに文字通りガキなんだから、しかたあるめい。ガキには、理屈の前に、まず愛情だ。情だ。ミルキーだ。
情とは何か。相手を尊重することだ、根拠なく。清濁あわせ飲んで、相手を肯定することだ。まずは、ミルキーを渡すことだ。
まずは肯定だ。
あ、私はこう見えても情はある方なんよ。嫌いな奴でも親切にできる。嫌いな奴相手にでもフェアであろうとする。その情を利用してラクしようとする人間は許さんけど。日本人だろうが、同僚のイギリス人だろうが(って誰のことか?)。
ということで、今日の福山の空も青い。あ、曇ってるな。

ここでコメントを引用されている先生は,最終的に退職されることが決まったようなので,すごく気の毒な事情がおありだったのだろうと思う。
ただ,こういったネガティブな姿勢で学生と接していると,彼らが成長するのはやはり難しい。
学生は,驚くほど教職員の態度・姿勢を見ている。その意味で,学生は我々の鏡なのである。

前向きな接し方にどういう意味があるのか

私の普段の仕事は教職課程を履修する学生の支援であり,たしかに免許だけとれればいいやという学生もいるが,修得者の100人のうち,20人くらいは本当に教師になりたい学生たちである。
こうした「必ずしも学校生活の勝ち組ではなかった人」が教師として現場に出ることは,大変意義あることだと思っている。
というのも,いわゆる机上の勉強を中心とした学力は,あとからいくらでも取り戻せるが,「立場の弱い子どもの気持ちがわかること」や「学校が面白くない子どもに寄り添うこと」といった感性は,なかなか努力で身につくものではないからである。
学校現場が今後多様性を増していくことに疑いの余地はない。
そうしたときに,教師が「学校生活の勝ち組」ばかりだったら?
息苦しくてしょうがない子どもたちが増えてしまうだろう。
自身の仕事の姿勢について,「そういう意義があるんだ」という意味づけを,自分なりに行っている。