松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「単位制度」の何が,なぜ課題なのか―大学教育論特講(内容と方法):佐藤万知先生の課題から―

◇購読文献
 今回の購読文献は以下の5点である。
①寺崎昌男(1999)「Ⅲ 歴史の中の大学教育・教師・学位制度 4 単位制度少史」『大学教育の創造―歴史・システム・カリキュラム』(東信堂),pp.233-242.
②杉谷 祐美子(2011)「教育・学習活動を支える仕組みと機能」杉谷祐美子編『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.140-148.
③清水一彦(2011)「2 単位制度とカリキュラム編成」『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.160-177.
苅谷剛彦(2011)「3 シラバスと大学の授業、授業評価」『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.178-193.
⑤南 学(2003)「単位の認定・不認定の予告が授業評価に与える影響」『大学教育学会誌』第25巻,pp.68-74.
 ①~④は佐藤先生にご紹介いただいたもので,⑤は自身の所属する学会のバックナンバーから探索したものである。①は単位制度の歴史を記述するものであり,変遷を回顧することはできたものの,課題についてはあまり触れられていなかった。このため,特に②~⑤の文献をこれらの文献を踏まえつつ,「単位制度」においてどのような課題が取り上げられており,なぜ課題となっているのかについて検討する。

◇どのような課題が,なぜ取り上げられているのか
 購読文献で取り上げられている課題は,主として以下の3点である。
 第1に,「使われ方」の問題である。単位制度は有効な「大道具」ではある。一方,杉谷(2011:143)によれば,わが国ではシラバスや授業評価といった「小道具」も「大道具」的に用いて,法律や制度で縛る傾向があるが,本来「小道具」と「大道具」は全体的な教育システムの中で統合されていなければならない。このように,「大道具」としての単位制度が,必ずしも他の「小道具」との関係を整理されないまま用いられている点に問題がある。
 第2に,「評価との兼ね合い」の問題である。単位制度の運用と評価は言うまでもなく不可分である。しかしながら,評価する主体が果たして授業外の学習時間も含めて判断しているのか(清水 2011:174)という問題や,評価される主体である学生が,単位認定の基準を「取り引き」として用いて,基準の甘い授業を高く査定する可能性がある(南 2003:73)という問題が生じる。つまり,本来不可分のものとして機能すべき単位制度と評価が,十分に連関をもっていないのである。
 第3に,「実質化」の問題である。わが国における単位制度は4年間の修業年限とセットになっているにもかかわらず,最初の2年間でほとんどの単位を修得し終えてしまう(清水 2011:175)。すなわち,学生が学位と交換しているのは,実質的には積み上げた単位数ではなく,4年間の時間であるという問題がある。
 以上3点の課題を総じてしまえば,苅谷(2011:191-193)の言うように,日米の大学の違いを十分検討しないまま,具体的な仕組みのみを模倣してしまった点にあるのではないか。新たな仕組みを取り入れる場合に,ある程度形式が優先するのはやむを得ない点もあるが,それらを全体の大学教育システムの枠組みから捉えなおすという実践が,常に並行して求められよう。