「大衆化」する学会
■IDE現代の高等教育 NO.575 2015年11月号(11月1日発行)「文系の危機」 - 出版物紹介
『IDE現代の高等教育』No.575を拝読した。
「取材ノートから」では,前号に引き続き松本美奈さんの<学会>に関する感想が掲載されている。
リード文は以下のようなものである。
▼挑戦する学会
前回の小欄で,ある教育関係の学会で見聞きしたことを書いた。先行例を調べもせず,なぜ今このテーマを掲げるのか,そして何を言いたいのか,聴衆の疑念をちっとも晴らせない。あげくに司会者から「発表者は狙いとまとめをしっかりさせて」と注意される展開に,当日の天気にたとえて,これでは「どしゃぶり学会だ」――と。それに対して,多くの方から「ほかのところも似たようなもの」「同感する」などと共鳴するご意見をいただいた。どうやら筆者が目の当りにしたのは,特異な事例ではなかったようだ。
ところで,この内容は以下の二宮佑先生(日本工業大学)のコメントが踏まえられていない。
「わかるように説明してほしい」「現代の課題が扱われていないので意味がない」「実りのある議論をするべきだ」、こうした学会批判の記事を読むと、学会も大衆化、〈消費者主義〉化したものであると感慨深くなる。
学会とは学者がその専門に関する研究を同じ分野の学者向けに発表する場である。そのため、短い時間を効率よく利用するべく、もちろん先行研究に触れつつも高い文脈で、前後の脈絡を省いて議論が展開することになる。わざわざ触れない先行研究についても、当然参加者のほとんどが知っているはずであるという前提である。専門外の方に対して「わかるように」話しをすることの優先順位はどうしても低くなる。また、「現代の課題」だけを扱うことが学会の目的ではないし、参加者も一人の知識生産の担い手として「実りある議論」になるように積極的に貢献しなければならない。
すなわち,学会においては,その領域で常識とされている先行研究および知見は,参加者の全員が了解済のものとして話が進行するのである。
それがいわば一定の障壁を形成して,同じ領域の研究者としてのギルドが成立する。このため,学会に参加するためには相応の学習が必要となる。
相応の学習を積まずに参加すると,発表やそれに対する質疑応答,進行する議論の内容がわからない。
松本さんが専門外であるとは思わないし,むしろ大学をはじめとした日本の教育を良くしたい,という情熱に尊敬の念を抱いている。
だから,批判しようという意図は全くない。が,参加されたセッションによっては「むしろわからなくて当然」という状態にもなりうるだろう。
なお,二宮先生が指摘されるとおり,ここで言及されている学会は日本高等教育学会の第18回大会であると思われる。
私自身,この場で発表をしていたということもあって,さまざまなことを考えてしまう。
中でも,自身が真の意味で「知識生産の担い手として」「実りある議論」になるよう貢献できたか,という指摘については深く反省せざるをえない。
まるっきり自分のことを言われているかのようである。
「知識生産」のためには,「開かれる」べきか,「閉じられる」べきか
こうしたことを考えるとき,いつもわからなくなるのは,学会は「開かれる」べきなのか,「閉じられる」べきなのか,という問題である。
「閉じられる」と,当然高い文脈を踏まえた議論が進行されるようになり,専門外の方は参加できない。
こういう場に参加できるというのは,ある種の快感でもある。
事実,昨年参加した大会と,広島大学の高等教育研究開発センターにお世話になりだしてから参加した今年の大会とでは,全く理解度が違っていた。
正直に言って,高度な文脈を踏まえた議論が少しずつわかるようになってきた,というのはすごく楽しい。
ギルドの仲間入りができたかも,というような喜びもある。
そして同時に,心のどこかで,高等教育研究の文脈を踏まえない議論については,切り捨てるようになってきたのかもしれないと思う。
では,ともかく「開かれる」べきなのか,というとそれも違うだろう。
参加者の多様性によって保持している知見のバラつきが大きくなると,「わかるように」するコストが増大して,知識生産の効率が下がる可能性がある。
知識生産のためには,やはり一定程度の障壁は必要となると考えられる。
しかしながら,やはり障壁が高くなりすぎるといわゆる「タコツボ化」が起こったり,そもそも会員数が少なすぎて学会としての地位が保持できなかったりする。
この,「開かれる」べきか,「閉じられる」べきかという問題は無限にループしてしまって,多分正解はない。
バランスを保ちながら,「開いたり閉じたりする」のかもしれない。
結局は地道なことの積み重ね
前述のとおり,松本さんを批判する意図は全くないのだが,その上で1点だけ異論がある。
冒頭のリード文には,以下のような続きがある。
それでも,懲りずに学会に出かけてしまう。どこかにきっと目からうろこが落ちるような取り組みをしている人たちがいる,そんな人たちが集まる場があるはず,と期待しているからだ。
たぶん,「目からうろこが落ちるような取り組み」を学会に期待するのは間違っている。
研究であれ実践であれ,結局は地道なことの積み重ねなのではなかろうか。
「目からうろこが落ちるような取り組み」があればいいな,と私も思う。
でも,現実にはそんな魔法の杖は存在しないだろう。
巨人の肩に乗りながら,日々地道な努力を積み重ねるしかない。