松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

広島大学高等教育研究開発センターのこれまでの歩みと葛藤。for広大かat広大か―高等教育基礎演習Ⅱ(研究講読):佐藤万知先生の課題から―

◇講読文献
金子元久(2013)「今後の高等教育研究のあり方とRIHEへの期待」『高等教育研究叢書』第124号,pp.1-10.
合田哲雄(2013)「行政サイドからの高等教育研究とRIHEへの期待」『高等教育研究叢書』第124号,pp.11-20.
有本 章(2013)「今後の高等教育研究とOBからのRIHEへの期待」『高等教育研究叢書』第124号,pp.21-46.
藤村正司(2013)「高等教育研究の未来を考えるRIHEのオンリー・イエスタディー」『高等教育研究叢書』第124号,pp.47-66.
大膳 司(2013)「第40回研究員集会の講演の概要とコメント」『高等教育研究叢書』第124号,pp.67-70.

◇資料を選定した理由
 今回の課題のための資料として、第40回研究員集会の内容をまとめた『高等教育研究叢書』の第124号を選択した。当該号はテーマを『高等教育研究の未来を考える~RIHEへの期待と今後のあり方~』としているため、広島大学高等教育研究開発センター(RIHE)のこれまでの歩みを俯瞰するのに十分であると判断した。なお、本書ではRIHEの活動に焦点化しつつも、活動に影響を与えた高等教育を取り巻くさまざまな変遷も報告され、そういった時流の中でRIHEがどう位置づけられてきたかが報告されている。

広島大学高等教育研究開発センターのこれまでの歩み

資料をもとにRIHEの出来事を時系列に簡単に整理すると、次のとおりとなろう。
1970-71年:「大学問題調査室」の設置と、概算要求「大学に関する文献資料センター」の頓挫
1972年:「大学教育研究センター」の設置
・大学の管理・運営組織に関する基礎的研究の大ブレイク(-1980年)
・『大学論集』『大学研究ノート』の発刊
OECDとの共同プロジェクトへの参画、修士・博士課程の開設(1981-90)
1995年:千田町から西条に移転
・「全国大学教育研究センター等協議会」を組織
・日本高等教育学会の立ち上げ(1997)
2000年:名称変更問題により、「高等教育研究開発センター」へ
2002年:COEに採択(5年間)
 今回の資料を拝読するに、RIHEの歩みの中での重要なポイントとして、RIHEが日本の高等教育の研究拠点を志向すると同時に、しばしば訪れる「for広大かat広大か」というアイデンティティの揺れがあるように思われた。いわゆるセンター的組織の役割は増しつつあり、組織としても各大学で増加傾向にあるが、所属教員については「センター系教員」という呼称があるくらいで、学部ではなくセンターに所属する教員には一定の不安定のイメージが一般にはあると思われる。すなわち、学部(およびそこに所属する学生)をもたないことから、「主人」の判断によって学部よりもスクラップ・アンド・ビルドの対象になりやすい不安定さを抱えているという印象があるのである。このため、at広大でやってきたRIHEも、「主人」の要求からときにfor広大として機能することを求められる。RIHEには日本で初めて創設された大学にかかわる研究組織であるというプライドもあり、たしかにそれにふさわしい成果を生み出してきたという事実もある中で、「主人」の要求も強まりつつあり、葛藤が増し続けているというのが現状ではないか。
 for広大とat広大のいずれを選択するのか、という問いに対する答えは自身として持っていないし、出せるとも思えない。歴史的経緯を踏まえると、「徹底的にfor広大になるべきである」とはとても言えないし、他方で「at広大でいることが結果としてfor広大になる」といったいわば牧歌的なことも言いにくい。「双方のバランスをうまくとる」ということも、理想ではあるが随分難しい気もする。もし自身にできることがあるとすれば、東大や名大の社会人院生を超える活躍をするべく研鑽を積むと同時に、彼らとのネットワークを積極的に構成し、その中で中心的役割を果たすことかもしれないと考えた。
 

以下参考(大きな枠組み)
―センターの歴史
・設置が一つの重要なメルクマール(金子)
・黎明期(1972年)、最初にできたしっかりした組織(金子)
高等教育の大衆化、それに伴うさまざまな問題が明確になってきた時期(金子)
・40年間に12名のセンター長が誕生(有本)
・特徴的な事件は、95年の千田町からの移転(有本)
・2000年には、センターの名称変更問題が…(センターが役に立たないとして、「高等教育開発センター」とし、研究の名称を削除されかける)(有本)
・2002年から5年間COEに採択され、危機を脱した(有本)
・早期制度化、大規模組織、国際化、協議会設置、高等教育学会設置等で特に大きな役割を果たした(有本)
・「センター群」の設置によって、制度化にのみこまれ、多くのセンターのうちのひとつになった(藤村)
・「大学問題調査室」(1970-71):広大改革に寄与すること、大学紛争を客観的に調査研究すること、将来は広大教職員の研修センターとしての機能を視野に(藤村)
・概算要求「大学に関する文献資料センター」の頓挫(藤村)
・概算要求「大学教育研究センター」における広大を超えた、「高等教育の基礎的・政策研究」の宣言(藤村)
・「大学教育研究センター」(1972-1980):大学の管理・運営組織に関する基礎的研究の大ブレイク(藤村)
・「政府がデータを持てるっていうのは、広島にセンターができたおかげ」(藤村)
・『大学論集』:自己研鑽的・紀要的性格をもつ(藤村)
・『大学研究ノート』:調査研究の中間報告等(藤村)
・「組織の拡充と国際戦略」(1981-1990):OECDとの共同プロジェクトへの参画、86年には修士・博士課程が社会学研究科国際社会論専攻の一部に開設(藤村)
・「引っ越しとバックラッシュ」(1991-2000):「全国大学教育研究センター等協議会」を組織(藤村)
・1997年には日本高等教育学会を立ち上げ、第1回大会を広島大学で開催(藤村)
・センターの名称変更(2000年)(藤村)
・甘い需要予測のもとオープン・アドミッションになっている大学院(藤村)
・COEへの採択が、30年の研究成果の蓄積として身を結んだ(藤村)
―参加者の拡大
高等教育のセンターに従事するコアの研究者が100名(金子)
・控えめにみても1000人を上回る人数が参加している?(金子)
・次第に分化、たこつぼ化、専門化する一方、それらを総合する側面も生じている(有本)
―制度化
・組織と参加者の量的拡大によって、高等教育研究の制度化をもたらした(金子)
・組織と研究者の拡大、凝集力(アイデンティティ)の構築、研究者の再生産という3つのポイント(金子)
・問題もある。研究の自己完結、啓蒙主義・批判主義、論理的・理論的な拡散(金子)
―展望
・「量」から「質」へ(金子)
・無前提の現在の大学のあり方を前提とするのではなく、大学の現在のあり方を批判の対象にせざるを得ない(金子)
・「金をかけずに頑張ってくれ」とどう向き合うか(合田)
・プロフェッション不遇の時代に、どう価値創造を行うか(合田)
・授業負担が圧倒的に少ないこと、そして優秀なスタッフによる恵まれた環境と押しの強さが、RIHEの多産で国際的な研究成果を生み出した大きな条件だろう(藤村)
・for広大か、at広大かという「代理人問題」における葛藤(藤村)
―センターの役割への期待
・期待は高い(金子)
・歴史があり、組織や人員も日本の中では最も大きい(金子)
・個々の構成員がそれぞれの特定の分野で極めて高い業績を挙げて、それぞれの分野でのリーダーになること(金子)
・全国的なネットワークのハブになること(金子)
高等教育研究にかかわる組織が具体的政策や個別大学の課題に役立たないという批判をどうするか。自己革新の態度をもてるか(金子)
・完全に外的視点に立つのではなく、メタレベルのストーリーを構想し、時代を先取りするという観点から議論を(合田)
・いわば参謀的な役割(合田)
・研究生産性と教育生産性を同時にあげ、学問中心地を構築し、世界的にランキングの上昇を(有本)
・①世界的研究者・優秀な教師・優秀な学生の集積②優秀な人材ネットワークの構築③優秀なセンター長の擁立、が課題(有本)
・「広島大学のためか」「広島大学に所在して世界のためか」→存在価値を高めることの必要性(有本)
・世界の拠点を作れるか、衰退の一途をたどるか、分岐点にさしかかっている(有本)
・学内貢献をすれば主人の評価は高まるが、エフォートは当然大きくなる(藤村)
・センターのオートノミーを確立するため、従来路線のモード1に徹することもありうる(藤村)