松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

人と人との出会いは一度ではない。何度か出会い直すことになる。

ここ最近、また学生時代の友人の結婚ラッシュが続いている。
ところで、一口に「学生時代の友人」といっても、その関係性はさまざまだ。
小学校時代の友人、中学校時代の友人、のように学校種で区切られる関係性もあるし、「小学校からの友人」のように、継続した時間軸で区切られる関係性もある。
中には、いっとき音信不通になったような人もいるし、逆にこちら側が音信普通になったこともある。
高校のときはたしかに同級生だったけれど、その当時は全然話したこともなくて、大学生になってから、あるいは社会人になってかはら初めて話すことになったような人もいる。
早めに結婚して家族を作って、子どももいるような人もいれば、まったく結婚する気配のない人もいる。
後者の人とは、しばしばつるんでしまう。
前者の子どもとは、ときどき一緒に遊べたりもするようになった。
小学生から中学生へ、中学生から高校生へ、高校生から大学生へ(あるいは社会人へ)、その後家族ができて、そうした主たる所属が変わってゆくたびその関係性もそのときどきで変化する。

こうした中で、同じ人に対して、時々新鮮な驚きや、新しい発見があることもある。
「あれ、こいつこんなやつやったっけな」とか、「いや、昔のお前はそんなんじゃなかったやろ」とか。
概して、少しずつやさしくなり、人を許容する範囲が広がっている気がする。
許容する範囲が広がるにつれ、昔の自分が恥ずかしくなるときもあるだろう。
ときどき唐突に、「あのときはごめん」などと、言われた側が全く記憶にないことを謝る人がいるのを目にする。
Aという人とBという人で、持っている記憶が少しズレていたり、違っていたりもする。
同じ過去のエピソードの話をしていても、お互いに「そんなことあったっけ」と言い合うことが増えてきた。
かつてはほとんど同一の記憶を持っていたはずなのに、思い返すものが違っているので、結果としてもっている記憶がズレていく。
これから時間とともに、ますますそのズレも大きくなっていくのかもしれない。

かつての自分は、なんの疑問もなく「人と人との出会いは一度である」と思っていた。
だから、「新たな出会い」というのは、自動的に「新しい人との出会い」であった。
しかし、「あれ、こいつこんなやつやったっけな」とか、「いや、昔のお前はそんなんじゃなかったやろ」とか感じるたび、
同じ人と「何度か出会い直す」ことがあるような気がしている。
同じ人と「何度か出会い直す」ことがあり、同時にそれは「新たな出会い」でもあるような気がしている。

あと何年生きるかわからないが、「新たな出会い」と同じくらい、「何度か出会い直す」ことも楽しみである。