1時間おきに30分さぼろうが、残り30分を使って成果を期限にあげてくれれば、何も問題ない。休みなく働こうが、成果が出なければ、アウト。以上、一経営者の意見。
— 大平貴之 (@ohiratec_mega) 2015, 8月 11
今の言葉には少し語弊があったので補足する。より正確に言うと、成果が出なくても成長があれば一定評価される。成果は今日の果実だが、成長は明日の果実。短期的な成果だけを評価していては長期ビジョンがない。勤務時間は、むしろ短いほうが評価される。光熱費節約になるから。
— 大平貴之 (@ohiratec_mega) 2015, 8月 11
これはいつも思っていることですが、職場に「いる」ということは、光熱水費を消費するだけなので、「いるだけ」では組織にとってマイナスにしかならないと考えています。
しかしながら、職場ではしばしば「いるだけ」を要求されることがあります。これはどのような組織においてもあることだと思います。
たとえば勤務時間。ある時間からある時間まで在席しなければいけない。これは基本的には知識労働の発想ではないはずです。
知識労働の発想では、「いるだけ」になるならむしろいない方がいい。いないならば0ですみますが、「いるだけ」ならマイナスになってしまうからです。
これは私のいるような大学の教務系のセクションでも同様だと考えています。
学生が窓口にやってきたときに、依頼が誰でもできることであれば、私のようなコストの高い職員が対応することはむしろ無駄になってしまいます。でも、学生が私を名指ししてきたときは別です。
このため、自分は出張でいないときなんかもありますので、学生には相談等あるときはできるだけ事前に日時を教えておいてほしい、と頼んでいます。
こういうことをやっていると「いる」ことにあんまり意味はなくて、
「いることによって生んでいる価値」-「いることによって発生しているコスト」>0
になることを意識するようになってきます。これが私の中での生産性の定義ですね。
この数値をいかに高めていくか、ということをいつも意識しているつもりです。
そのためには、今の自分がただ「いる」だけになっていないか、ということをいつも内省しておく必要があると考えています。