松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

今津孝次郎著『変動社会の教師教育』(名古屋大学出版会)を読了(2)「未完成の教師」

昨日の続きです。今津先生の著書を拝読して印象にのこったところ、考えたことなどをつらつら記録していきます。

これからの社会が求めるのは、「未完成の教師」

昨日、教師教育に関する2モデル(「aモデル;教師個人モデル」「bモデル;学校教育改善モデル」)をご紹介したところですが、今津先生はこれからの時代に求められるのは、bモデルにおける「未完成の教師」である、とおっしゃっています。
この仮説に依拠すると、自身の仕事のテーマは、「未完成の教師をいかにして育てるのか」というかなり難しい命題を突きつけられることになります。完成してしまっては困るんですよね。
説明のある箇所をお示しします。赤字は引用者です。

完成された教師という伝統的な考え方では,時代の変化に適応しにくい。変動社会では,学校は常に新しい知識や技術の学習を期待されるとともに,学習の新しい方法を学ぶことも期待されている。また,学校が予期せぬようなさまざまの新しい問題を次々と抱え込み,それらに対処していくためには,教師は常に発達を遂げる,という基本的な観念に立脚する必要がある。

また、この文脈で「資質向上」「力量形成」「職能成長」といった表現がアクターによって異なる使い方をされている、という指摘も同時にされています。

わが国の教育界では,「資質向上」とか「力量形成」あるいは「職能成長」という表現が用いられている。しかし,これらの言葉は,使用する人たち(教師自身,文部省・教育委員会,研究者)によってさまざまな意味が込められており,研究上の概念としては曖昧性をもつ。たとえば,「資質向上」は文部省や教育委員会がよく用い,どちらかといえば人間性とか教育愛など教師の性格とか人格的意味合いが強い。一方,「力量形成」は教師や教員組合がよく用い,実践力の意味が強い。「職能成長」は専門的能力に関する学術用語として用いられてきたけれども,「資質向上」「力量形成」と同じく,専門知識・技術,人間性,実践力,管理能力というような要素分解的な捉え方になりがちなところがある。

大学院で指導いただきながら(JUAMの補助を受けながら)進めているテーマとして、教師教育にかかわるアクターが考える大学卒業段階の教師像(あるいは、彼らの「資質能力」)に対する認識には、どういったズレがあるのだろうかということの実証分析があります。
ズレているのは多様性担保のために悪くないかもしれないが、合意を形成しながら一緒に養成する以上、ズレすぎていると問題だろうと。
そういった問題意識から、何がどの程度ズレているのかを明らかにしたいと考えています。
このとき、用語の問題は非常に重要で、こうした今津先生の指摘は「ズレ」の説明の文脈で引用可能かもしれないと思いました。

変動社会の教師教育

変動社会の教師教育