松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

高等教育基礎論Ⅰ(社会学的研究)課題⑤山田浩之(2010)「信頼と不信―錯綜する教師へのまなざし」『教育社会学研究』第86集,pp.59-74.

佐藤先生ご担当回の1回目の課題です。
同級生とチームで作成しましたが、自分の担当した部分だけを公開します。

2015.7.3

高等教育基礎論Ⅰ(社会学的研究):佐藤先生ご担当回

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M156296 松宮 慎治

以下の文献を購読し、①論文の研究課題と調査手法、結論、②これまで読んだことのある量的調査法を用いた論文との違い、についてまとめました。

【購読文献】
山田浩之(2010)「信頼と不信―錯綜する教師へのまなざし」『教育社会学研究』第86集,pp.59-74.

①論文の研究課題と調査手法、結論*1

②これまで読んだことのある量的調査法を用いた論文との違い
 これまで読んだことのある量的調査法を用いた論文との違いを5点挙げる。
 第1に、用いているデータが違う。これまで読んできた量的調査法による論文では、数値を中心としたデータを使用していた。具体的には、性別や順位といった定性的データや、満足度や金額といった定量的データの組み合わせであり、公的統計や公開されている調査、独自のアンケート結果等を素材としていた。一方、今回課題となっている論文は小説、映画、マンガといった<作品の中身>であり、数値では表現が困難なデータである。
 第2に、用いるデータの制約が違う。量的調査法による論文では、使用可能なデータとの葛藤が常につきまとっていた。すなわち、研究者の問題関心に近い公表データがあるかどうか、あったとしても全てを網羅できないので、追加的に独自のデータを取得するかどうか、また、仮にそこまでしたとしても限界があるため、どこまでが実証可能な範囲でどこからは実証不可能な範囲なのか、といった説明を付加しなければならなかった。しかしながら、今回のように<作品>を取り上げる場合には、使用可能なデータがほとんど無限に存在するため、データの使用可/不可そのものに研究が制約されることは少ない。
 第3に、研究者による解釈の射程が違う。今回課題となっている論文においても、熱血教師像を「最大公約数的にまとめる」という表現が登場するように、量的調査法に比較して解釈の幅が広いように思われる。データに対して研究者の解釈が存在するという点では量的調査法と変わりないが、分析結果が研究者の解釈に依存する幅が大きい。
 第4に、演繹か帰納か、という区別が可能ではないかと思われる。量的調査法は数値を中心としたデータから特定のモデルを作り、作ったモデルを実証するという演繹的なプロセスを経ることが多かった。一方、今回課題となっている論文では、いくつかの作品の分析を積み上げながら、帰納的にモデルを組み立てていくという方法をとっていると考える。
 第5に、研究者の独自性が強く反映されることから、再現性に乏しい。すなわち、量的調査法であれば、解釈は別にして結果そのものは使用データさえあれば再現が可能である。一方、今回課題となっている論文のような質的調査法では、作品の分析も含めて研究者の解釈の幅が大きいので、別の研究者の分析では全く異質な結果が導かれたり、全く別の角度から解釈がなされたりといったことがありうる。このため、研究者が代われば分析結果も変わるのが当然であり、再現性を同時に備えることは難しい。

*1:省略