松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

意識高い系?

かつて『意識高い系という病』という本が流行したが、最近になって再度「意識高い系」という言葉が聞かれるようになった気がしている。
これは著者の常見陽平さんご自身がおっしゃっていたことだと思うが、意識が高いことが問題なのではなく、意識だけ高くて現実の能力が伴っていないことがダサいという趣旨なのである。

ここからが本題なのだが、私のように学外でさまざまな学習をしたり、学会や研究会に所属したりしていると、「いかに学内に還元するか?」ということが論点になることがある。
すなわち、学外で元気だけど学内でしょんぼりしている人というのがいて、そういう人は意識だけ高くてダサい、目の前の実務こそ重要だ、という発想である。
しかしながら、これは最近思うことだが、実は「やる人というのは学外であろうと学内であろうとやる」のである。
たぶん、学外にいるときだけやっていて、学内ではしょんぼりしている人の存在というのはほとんど幻想に過ぎない。
やる人はどんな場面であろうがやるのであり、やれない人はどんな場面でもやれない。
同じ人間の行為なのだから、ある種必然ではあるのだが。

このことから、「自分は意識高い系と思われるのでは…?」といった感覚や、「学内の実務に還元できなければ、学外での学びなど無意味だ」といった話題はほとんど意味をなさない。
やる人はどこであってもやるからである。学内でやれない人は学外でもやはりやれない。その逆もまた然りである。
ただ、学外の組織ではその実態がわかりにくいかもしれない。一緒になにかをやってみて初めて発覚するだろう。
さらに言えば、そうした周囲の視線を気にする姿勢そのものが無駄である。
自分の評価は他者が決めるのであって、自分自身が関与できる領域ではない。
だから、自分なりにやれる範囲でベストを尽くし、その評価は他者にお任せ、という楽な気持ちでいればいいのである。
他人はそこまで自分に興味を持ってはいない。
これは自戒を込めて言うのだが、世の中には思いの外、自意識過剰であることを自覚している人が少ない。
意識が高かろうが低かろうが、ベストを尽くして高い付加価値を生んでいればいいだけのことである。