松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

出る杭は打たれるというが、むしろ打たれてなんぼである

出る杭は打たれると言いますが、地面に埋まっている人生で楽しいのかという疑問があります。
むしろ、打たれることを楽しんではいかがでしょうか。
お、きたきた。始まったぞ。打たれる打たれる。みたいな感じで。
挑戦する限り打たれることに終わりはありません。
もし打たれることなく周囲が賞賛で埋まり始めたら、それは何かがおかしくなっていて、何かを変えなければいけないというサインだと考えています。
本当に価値ある挑戦がいきなり世の中から絶賛しれるわけもありませんので。
批判9割、賞賛1割くらいが妥当なラインじゃないでしょうか。

むしろ気にしなければならないのとは、「誰に打たれているのか」ということと、「地中に根を張れているか」ということではないだろうかと思います。

誰に打たれているのか

打ってくる人のレベルが自分のレベルです。
前述のとおり、チャレンジを継続する限り打たれることに変わりはありません。
しかしながら、打ってくる人の性質が変わってきます。
注意すべきなのはどんな人に打たれているかであって、その人のレベルが今の自分のレベルだと謙虚に自覚することが大事だと思います。
その人が打てる程度の伸びしかまだないと。
さらに伸びれば、その人の手が届かない高さに到達して、また違う人が打ってきます。

地中に根を張れているか

単に上に伸びればいいというものでもない気がしています。
大して長さがないのに上にだけ伸びてしまったら、すっぽ抜けてしまいますからね。
なので、基礎的な力(これは学問とか教養も含むと思いますが)があって、さらに地道な泥臭いトレーニングを毎日継続して、地中に根を張っておくことが大事かなと自分では思っています。
すなわち、上に伸びようとする以上は、それ以上に地中の根を張らないといつかすっぽ抜ける可能性があるということですね。
このバランスをどうとっていくかが結構難しいなという実感をもっています。