松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

教員になりたいのですか?

最近大学院に通い始めているのですが、その前から高等教育関連の学会に入っていたことで、しばしば受けた質問です。
以前はイラついて否定していましたが、最近はどうでもよくなってきました。
まあでも、イラついていたのも間違いかもしれません。
というのも、このの質問の趣旨は「なりたいのですか?」ではなく、「なったらいいじゃないですか」だったかもしれないので。
なので、最近では「わかりません」と答えるようになりました。
「先のことなんて考えてません」と。
先のことを考えるのは好きではありませんし、なにがどうなるかわからないことを楽しんでいるわけなので。
それは退職を視野に入れているとかそういうことではなくて、生き方として射程に入れてるのが1年未満ですということなんです。
「それでも修了したら、なんでマスターをとったのかを必ず問われるんだよ」と先日とある先生に言われましたが…。
確かにそれはそのとおりではあります。
しかしながら、それは自分で考えるというより、生まれ出たものに対して市場が評価してくるものかなあと考えているのです。
大学院修了したから評価されたいとか、それによってより高度な仕事を与えられたいとか、そういうのは全くないですね。

大学教員という仕事で羨ましいなと思うところは、自由裁量が大きくて研究費があるところですね。
でも、一方ですごく厳しい仕事だと思います。若い専任の先生にはほとんど任期がありますし、資金源が補助金であることが増えてますので、決して給与も高いとは言えないでしょう。
その意味では、私のように仕事の中でも相当の裁量をもらい、任期もなく、職場から研修費をいただき、科研の申請も許可してもらい(落ちたけど)、さらに大学行政管理学会の奨励金までいただいている、となるとこれは相当に恵まれた身分です。
だから満足しているところも大きいです。

まあ一口に教員だ、職員だとはなかなかいいにくいところも大きいですね。
組織文化によるというか。
私は望ましいと思いませんが、教員に対してやや管理的な大学もありますし。
共通しているのは、レベルの高い仕事と高い自由裁量はセットだよなあということですかね。
自由裁量の大きさはそれが知的労働なのかどうかという本質と深く関係してきます。
なので、教員だ職員だといったことに関係なく、質の高い仕事をさせようと思ったら大きな裁量を与えることが必要なように思います。
少なくとも今の自分には絶対に必要なことです。
その代わり、文句ない仕事の成果を生まねばなりませんが…。