松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

職員にSNSを禁止している大学があるらしい

これは今日とある方がFacebookに書かれていたことである。
本当かどうかは別として、この手の問題はなかなか難しい。
こうした職場があったとしたら、実名ブロガーなど一発で懲戒免職であろう。
個人的には、禁止するのはあまり本質的な解決にならないと思うので賛成はできない。
新しいテクノロジーを禁止したところで、それが一体なにになろうか。
大切なのは、テクノロジーに使われることなく、いかにうまく使うかを知るということである。新しいテクノロジーはどうあれ所与のものになっているのであり、禁止したところでそれらが存在することに変わりはない。
そういう状況を踏まえた上での禁止というのは、意思決定権者の「くさいものにフタをしたい」「とりあえずなかったことにしたい」という逃避行動にほかならないと言える。

これはSNSのケースだが、なんにせよ新しいテクノロジーを使おうとすると、「それって大丈夫なの」「危ないからやめておこうよ」と言われることがままある。
ここで一つの仮説が検討できる。すなわち、そうしたことを言ってくる人に限って、そのテクノロジーを使ったことがほとんどないことが多いのではなかろうかと考えられるのである。
SNSの例でいえば、Facebookを使うことを禁止すると決めた意思決定権者がいたとして、その人はFacebookを使った上でそのことを決めたのかというと、多くの場合そうではないのではないか。
自ら使ってみたことのある人ならば、禁止することと併せて使用した場合のメリット、デメリットを提示できるであろう。
他方で、テクノロジーとして流通したということは、メリットがデメリットを上回っていることの一つの根拠であるから、既に流通してしまっているテクノロジーを敢えて使わないという意思決定はなかなか支持されにくいと思われる。
さらに、やってみる前に勝手に危険を察知してやめるということは、とりあえずやってみれば生まれたかもしれない価値をおめおめ捨てるということでもある。
人間は神ではないので、どちらがよいのかは実際やってみないとわからないことが多い。
なんでもかでも挑戦することがいいとは思わないが、挑戦しない場合にはその結果として生まれたかもしれない価値を捨てている可能性を、併せて視野に入れておくことも必要だと考えている。
もちろん、挑戦した結果生まれる危険というものもあり、それらは裏腹の関係にある。それらは本来裏表で、等しくバランスがとれているにもかかわらず、チャレンジして失敗する確率を高く見積もりすぎなのでは、と思うわけである。

SNSの利用については、これが小学生や中学生なら話は別かもしれない。
しかしながら、大人である以上自律的に生活を営むことが求められる。
したがって、SNSを使うかどうかも含めて自己責任のもと働くことが望ましい。
私などは実名でブログを書くという通常考えれば非常にリスクの高いことをしているが、今のところ大きな実害はない。
ただ、それはこのことによって最悪クビが飛ぶ可能性も承知している、という覚悟と背中合わせでもあるのである。