松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「2014年度大学職員フォーラム」における発言記録(2)―学生に抱く印象と問題提起―

「2014年度大学職員フォーラム」における発言記録(1)―自身の大学時代と、今の仕事― - 松宮慎治の憂鬱
昨日の続きです。

4.学生に抱く印象

 以上の経験を踏まえて、個人的に学生に抱いている印象です。
 まずプラス面ですが、学生から学んだことはたくさんあります。一例を挙げますと、教職課程を履修する学生は、4年次で教育実習にいきますが、終了後に後輩に一言ずつ話す、そういう振り返りのプログラムがあります。その中で、学生の言葉で印象に残るようなことがあります。「子どもたちは、見ています」これは今年卒業する女子学生の言葉です。子どもというのは、教員が思うよりも遥かに自分たちのことを見抜いている、だからそのつもりで子どもと接しましょう、ということを言っています。それから、「教員というのは、自分より素晴らしい可能性を育てる仕事です、そう思って実習に臨んでください」これは、既に卒業した男子学生の言葉です。この2つの言葉、子どものところを学生に置き換えれば、まさに自分の仕事と同じです。このように、学生の言葉からはっと気づくようなことがたくさんあります。
 次に、マイナス面です。一つには、チャレンジを恐れるということがあります。まだチャレンジをする前に、自分にはその力がない、と勝手に既定してしまう傾向があると感じています。次に、<出席>を気にするということがあります。授業に出席する、すなわちその場にいるということそのものを評価してほしいという発想です。かつては、理解していることが大事なのであって、もし既に中身を理解しているのならば、むしろ出席する必要はない、という発想であったかと思います。これと関連するのですが、平等性を気にします。自分は真面目に出席している、でも、あまり出席せず、効率よく欠席しつつ、単位認定はしっかり受ける、という学生がいたとする。そうすると、「自分は真面目にやっているのに、なぜあの人と評価が同じなのか」ということを言ってくる。加えて、他罰思考というものを感じます。他人の迷惑行為は罰してほしいし、罰せられるべきだ、という発想です。例えば、授業中の私語を注意しなかったら、なぜ注意しないんだと先生に言うことになります。ポイント制にして、一定のポイントに達したら退場させてほしい、というような考えを持つ学生います。これは、指定場所以外の喫煙なんかでも同様です。少なくとも、自分が注意するとか、そういう発想はありません。

5.学生の多様化を感じる場面(他大学の友人へのヒアリング)

 今回、独りよがりになるのがいやだったので、他大学の友人にも、学生の多様化を感じる場面について色々と聞いてみました。ご意見をまとめると、大体8つにカテゴライズできるのではないかという風に思いました(①受け身の姿勢?②権利意識・消費者意識の膨張?③コミュニケーションの不全?④大人しく、保守的?⑤規範意識の欠如?⑥保護者との関わり?⑦学力の不足?⑧学ぶ意欲or環境の問題?)。すべてに「?」がついているのは、こんな風にまとめちゃっていいのかなという迷いがあったからです。細かく一つひとつについてご説明するのは避けようと思いますが、目で追っていただきながら「ああ、あるある」というような気持ちで見ていただければと思います。
 受け身の姿勢についてですが、「やる気スイッチを押してもらえるのを待っている」というご意見が象徴的ですが、誰かなんとかしてくれないかなあと待っている、ということです。また、履修のときなんかに、自分で決定できないという学生がいます。権利意識・消費者意識については、要するに、自分はお金を払っているので、それに相応しい対価を受け取る権利がある、という発想です。次のコミュニケーションの不全、やはりご意見としてはこれが一番多かったです。なかなか人と真正面からぶつかって関わろうとしないとか、窓口へ来ても話をするのが下手だとか、そういう状況があります。あるいは、一人ランチを見られたくないのか、隠れて食べたり急いで食べる、自分の落ち着く場所で食べる、これなんかは完全に私ですね。それから、窓口付近にきても、自分からは来ずにウロウロしている、こういう状況も、学生対応系の部署にいらっしゃる方はよく見かけておられるかと思います。それから、大人しく、保守的だという状況もあります。若いから色々なことを積極的にやるのかなと思ったら、そうでもない。それから、この言葉が適切かどうかわかりませんが、規範意識の欠如。ルールを守るということが苦手だという学生もいます。学生本人にとどまらず、保護者との関わりが増えているというご意見もいただきました。最近ではお母さんだけでなく、お父さんからの問い合わせが増えてきたと。純粋に学力が不足しているんじゃないだろうか、というような意見もあります。文章が書けないというのはその象徴でして、特にキャリアセンターの方からこのご意見はよく伺います。履歴書を書く段になって、なかなか書けないということです。それから、学ぶ意欲や環境の問題というのもあります。さきほどの出席の話でいうと、これくらい出席をしなければ、単位は与えられないということが決まっていたりします。そうすると、「じゃあ1/3は欠席していいんですね」ということを言ったりする。アルバイトの問題もあります。特にこのご意見は先生方からもいただいていて、どうもアルバイトの負担が重過ぎるのではないか、ということも言われています。

5.問題提起

 このようなご意見を拝見し、色々と考える中で、ふつふつとつぶやきのような疑問が生まれました。それは、一言でいうと、「多様化ってなんだろう?」ということです。今回のお話をいただいて、大学生の多様化を論じた文献も読みました。たとえば、岩波の大学シリーズに、多様化する学生をテーマにしたものがあったので、読んだりしました。しかし、どうもしっくりこない。学生の多様化というのは、実はかなり以前から指摘されていることで、今に始まったものではない、ということもありました。しかし一方では、大学へ進学する割合が増えているというデータもある。実際に、京都の大学さんでも、10年前と比べたら、学部も本当に増えましたよね。そんな風に定員の拡大があったりして、色々な学生が入学するようになったことも事実だと思いますし、そうした中で苦慮している仲間、教職員がいることも、これは事実だと思います。
 ですから、私には、多様化って結局なになのか、がよくわかりませんでした。学生は本当に多様化しているのでしょうか。仮に多様化しているとしても、多様化は悪いことなのでしょうか。大学の良さの一つは、色々な人がいる、色々な考え方が混在する、そうした多様性にあるはずです。しかし一方では、その多様性に苦慮するような状況もある。ということは、一口に多様化といっても、その中にはいいものと悪いものがある、望ましいものとそうでないものがある、ということなのだろうかとか、そういうたくさんの疑問が生まれました。
 以上を踏まえて、問題提起というと少し言い過ぎかもしれませんが、普段から私が感じている問題意識のようなものをお伝えしたいと思います。一つには、「大学の責任はどこにあるんだろうか」ということです。大学は、多様な学生を伸ばすための器をキープできているのでしょうか。管理思考や、懲罰的発想で学生を委縮させてはいないでしょうか。例えば、証拠書類の提出を頻繁に求めるなど、学生が悪いことをする、ズルいことをする、そういう前提で制度設計がなされている、という実態はないでしょうか。あるいは、「社会に出たら、ルールを破ったら罰せられる。だからルールは大事だ」というような、ルールを盲信した物言いをしていないでしょうか。私はこの考え方に非常に疑問があります。たとえば指定場所以外の喫煙なんかでも、「決まったルールは守らなければいけない。守らないのはダメな人です」ということしか言えないパターンがあります。この、「ルールは守らなければいけないのだ、なぜなら決まっているからだ」というような考え方は、学生に受け入れられません。私は、次のような話を学生にしていました。「この大学には、体が弱くて、たばこの煙がしんどい子もいる。そういう子にとっては、指定場所で喫煙されるという行為は、非常に苦しいものがあります。その子は、直接的にはあなたの友人ではないかもしれない。しかし、同じ大学に通う仲間でもある。直接の知り合いでなくても、学びの場を共有する仲間として、想像力で補いながら知らない誰かを慮れるような、そういう大人って素敵ですよね」。若い人というのは、これからの時代を作っていく人です。だから、既存の価値観の存在理由を考えたり、場合によってはそれを壊したりしてもらうという発想が必要です。ルールを盲信するだけでは、そういう発想には至りません。なぜそのルールがあるのかを自分の頭で考えられなくてはなりません。
 それから、非常によく聞く言葉として「大学生に対して、そこまでやらなければないけないのか?」というものがあります。これに対する意見が二つ目です。この言葉については、気持ちはわかります。でも、刺激的な物言いになりますが、「それってめんどくさいだけなんじゃなの?」と感じてしまいます。というのも、「やらない」ということを選択するのにも、それなりにエネルギーが必要だと考えるからです。学生への支援というのは、とりあえずやるというのが実は一番楽で、「やらない方が学生にとっていいから、教育的な効果が高いからやらないのだ」と決めることは、多くの議論が必要ですし、信念がないといけませんし、とてもハードなことです。「そこまでやらなければいけないのか」という言葉を発する人は、多くの場合そのようなハードな意思決定をしてはいないと思います。単に、少ししんどいなあ、めんどくさいなあ、そういう心情を愚痴のように吐露しているというのが実情だと思います。やらないことも、いいことです。でも、やらないということをきちんとその理由を含めて決定し、信念を持って実行する、そういうプロセスを持ちうることが大事だと考えています。