松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「2014年度大学職員フォーラム」における発言記録(1)―自身の大学時代と、今の仕事―

話題提供者として呼んでいただきました2014年度大学職員フォーラム、1月10日(土)に終わりました。
プログラムは以下のとおりです。
2014年度「大学職員フォーラム」に話題提供者として呼んでいただきました - 松宮慎治の憂鬱
評価を決めるのは参加者の方だと思いますが、自分の出来には満足できませんでした。
自己採点は、30点くらいです。
何より、発表時間が1分半オーバーしてしまったことが、プロとしてダメだなと。
元々30分で用意していたスライドを、当日急きょ25分に圧縮したのですが、元々の量が多すぎました。
気合いを入れて作ったはいいけど、勇気を持って捨てることも必要だった、と反省しています。

そして、このセルフ文字起こしのために録音を試みたが、失敗するという、泣きっ面に蜂感もありました。
なので、自身で思い起こして記録しました。
長すぎるので、3回に分けたいと思います。正確なものは、事務局の文字起こしを待つとして、、
また、文字起こしを受けて修正したものは、『大学職員ジャーナル』に掲載されます。

スライドは、以下のとおりです。
日々の業務を通して見える学生ー10年間の経験からー

文字起こしは、以下のとおりです。

1.自己紹介

 松宮慎治と申します。所属は神戸学院大学です。本日はこのような機会を頂戴しましてありがとうございます。まず関係者のみなさまに御礼申し上げます。
 さきほど阿部先生のご講演の中で、「独身貴族」と「パラサイトシングル」のお話がありました。私は神戸で一人暮らしをしているので「パラサイトシングル」ではないのですが、実家に帰るたびに親からは「お前は独身貴族やな」と言われています。
 さて、本日のタイトルを「日々の業務を通して見える学生―10年間の経験から―」とさせていただきました。しかし、元々は「10年間」ではなく、「7年間」としていました。大学で働き始めてからの7年間ということです。それをなぜ「10年間」に変えたのかを初めにお話ししたいと思います。
 10年前の私は、大学1年生でした。2004年度ということです。だから、今年度は私にとって実は節目の年です。高校は非常に楽しかったのですが、大学生活は辛かった、というのが私の個人的な体験です。資料を作る中で、大学で働くときに、結局自分は自分の大学時代の経験に縛られていて、そこから逃れられないのだ、ということに気づきました。大学生活がつらかった自分が、今なぜか大学で働いている。そういう経験が今の仕事に与えている影響は大きいと気づきました。
 今、高校は楽しかったと申し上げました。私が卒業したのは、京都橘高校という私学の高校です。だから、今日こうして京都でお仕事ができるというのは、私にとっては非常に嬉しいことです。せっかく京都でお仕事をしますし、今日も京都橘学園の方がお越しだと思うので、「卒業生頑張ってますよ」ということをお伝えして、京都橘アピール、京都橘推しで参りたいと思います。高校を卒業して大学に進学し、2008年の4月から神戸学院大学で働いています。次年度からは大学院に勤務しながら通う予定があり、そんなつもりはないのですが、ますます独身貴族を極めていくような雰囲気があって、自分でも不安に思っております。

2.自身の大学生時代

 私は大学入学当初、「便所飯」をしていました。専門的には、ランチメイト症候群と呼ぶらしいのですが、とにかく、トイレでご飯を食べるということをしていた時期があります。便所飯をしている中には、色々な人がいると思います。友達がいなくて、一人でご飯を食べるのがいやだから、というケースもありますが、私はそうではありませんでした。むしろ逆で、一人になりたくて便所飯をしていました。専攻の友達がいたんですけど、昼休みになると、あえてその集団から離脱して、一人で一番きれいな図書館のトイレに行く、ということをしていました。私が大学生だった2004年頃は、便所飯という言葉はおそらく知られていなかったと思います。大々的に知られたのは、私が働き始めた2008年だったはずです。おそらく、毎日新聞だったかと思いますが、ネットのニュースで「最近の学生はこんなことをしている」というような文脈で便所飯が取り上げられて、「これ、かつての俺やん」と思いました。ああ、俺は便所飯業界のフロンティアだったのだな、と思いました。
 大学の何が辛かったのかというと、一言でいうと、高校までとの差が大きすぎた、ということです。例えば、親なんかも、これからはなんでも自由にしていいんだよ、と言われ始めます。でも、そんなことを急に言われても困るわけです。あるいは、講義の内容に関心が持てない、ということがありました。名称は立派なのに、内容が非常に限定されているものが多かった。人間関係も表面的に感じられました。私は、高校のように、クラスがあって、集合する場所が決められていたとしても、友達と仲良くなるのに半年はかかるタイプでした。そんな私にとって、緩やかなつながりの中で当たり障りのない会話をすることは苦痛でした。それから、「大学は人生の夏休み」という空気にも違和感がありました。この言葉は、実際に先輩が言っていたことです。これは、大学が終わったら人生はもう秋に突入してしまうということを言っているわけで、だから遊びまくれということだったと思うのですが、この空気に違和感をもっていました。さらに、私のときは、単位をいかに効率的にとっていくか、それが一番大事だ、という風潮がまだありました。
 そういう私にとって必要だったことは、「自ら動く」ということだったと思います。講義の内容に関心が持てないならば、自分で色々模索して、興味のあることを見つける。あるいは、友達に積極的に関わっていくというようなことです。しかし、こうしたことは頭では理解していました。ただ、実際に行動することとの間には壁があった。なぜかというと、そういうことをそれまであまりやってきていなかったからです。
 さて、高校は楽しかったと言いつつ、このように大学は楽しくないと言ってしまうと、大阪教育大学を批判しているような感じになってしまいます。私にその意図はありません。自分に力がなかっただけだ、と思っています。私はこうした辛い時期から、自力で浮上しました。でも、時々、何か大学が浮上するきっかけを与えてくれていたら、何かが違ったかもしれない、と思うこともあります。だから、今の仕事では、あらゆる学生にきっかけを与える役割を果たしたいと考えています。そして、大学になじめない学生、うまく大学生活を送れない学生の方が気になります。そうした学生は、大化けするし伸びるのだという確信もあります。

3.仕事の経験

 私は2008年から神戸学院大学で働いていますが、最初は学生支援の部署に配属されて、2012年からは教務にいます。このように、基本的に学生と接する現場に籍を置いてきました。学生支援のときは、学生向けの情報誌で頑張っている学生を取り上げたり、食堂の改善を目指すボランティア団体を作ったり、学外からの苦情対応なんかをしていました。この苦情の対応は非常に得意にしていまして、いわゆる「クレーム処理」のような発想で相対するのではなく、うまくやりとりをして、逆に味方につけてしまう、こういうことを得意にしていました。今は、教職課程の学生の支援をしています。
 普段の業務から少し外れるようなことでいうと、東北への学生ボランティアバスの引率を3回しました。これは車中泊でして、体力的には非常につらい。また、昨年は、京都産業大学さんにお世話になって、学生FDサミットへの引率もしました。このように、学外における非日常の体験を共有することが、学生と信頼関係を結ぶには有効であるということも学びました。
 今行っている業務ですが、教員採用試験の合格者をどう伸ばすか、ということに注力しています。ここはプロとして数に拘りたいと思っています。一方、単に免許を取得したいだけ、という学生もたしかにいます。そうではなくて、真剣に教員になりたい学生、そういう学生が確実に現役で教員になれるようにはどうしたらいいか、そういうことを考えています。そのために、やはり大学の資源は限られていますから、学生同士が自主的に学びあえるような制度・環境・仕組みをつくる、ということに今は注力しています。