松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

教職課程の学生同士の学び合いに向けた試み(2)問題意識②

教職課程の学生同士の学び合いに向けた試み(1)問題意識 - 松宮慎治の憂鬱

前回は自分が個人として、もう少し目の前の学生のためにしなければならないことがあるのではないか、という問題意識を持っていたことについて述べました。今回は、教職課程を履修する学生たちを見ていて感じた問題意識について記します。

結論からいうと、みんな1人ないし友人同士の数人で勉強していることが問題だ、ということを感じていました。

そういうことを感じたきっかけは、教職課程の1年次の履修者と、最終的な4年次の免許取得者に大きな差があったことです。このような表現は不遜かもしれませんが、私の感覚からすると、教員免許状というのはちゃんとやれば誰にでもとれる免許状です。とれたからといってすごい、ということはありません。免許状をとることは最低条件、そこに自分なりの価値をどう足していくのか、ということが肝要になってくるのがこの免許状の性格だと思います。運転免許状に近いかもしれません。

にもかかわらず、1年次の時の教職課程の履修者が、最終的にどんどん脱落(と言うのか、諦めたのか、教員免許が不要になったのかはわかりませんが)していることが不思議でした。

ただし、このような状況はどこの大学にもあることです。私は職員なので、適切な支援をすれば、1年次の履修者と最終的な免許取得者の差を埋められるのではないか、と考えていました。しかし、教員あるいは教育的な側面から見ると、先生に向いていない学生や実習先で多大な迷惑をかけてしまいそうな学生は、本人のためにも早めに脱落してもらう方がいい、という考え方もあります。

そこで私は、この不思議についてはいったん脇に置いておいて、「少なくとも、単に免許状を取得することを目標にしている学生ではない、本当に学校の先生になりたいと思っている学生が、確実に学校の先生になれるようにするにはどうすればよいか」ということを考え始めました。

その上で、いくつかの施策を大学として実行しました。教職教育サポート室を開設し、毎日日替わりで元学校の先生にお越しいただいたり、模擬教室を作ったりすることです。これらはもちろん、私個人の力で実施できることではありませんので、大学としてやったことです。

しかしながら、こうした支援はどんな大学でもしていると思います。あと、我々にできることはなんでしょうか。

ここで初めに戻ります。私は教職課程の学生をじーっと観察していて、どうもみんな、1人ないし友人同士の数人で勉強しているな、という点に問題を感じていました。1人なら1人、友人同士の数人なら、同じ学部学科で免許教科の取得を目指す学生同士数人、そうした形態で勉強している気がしました。本学には教員養成系の学部がないので、教職課程を履修する学生というのはすべて、各学部の専門の学びの+αとして、卒業要件外の単位を修得しにいっています。一部の学生が自分のために、いわばオプション的に履修しにいっているために、教職の勉強するにあたっては、彼らは元々孤独な状態に置かれているのです。

大学の勉強というのは孤独な状態ではできません。ましてや、学校の先生になろうというような学生が、1人で勉強したり、限られた友人同士で勉強していて、先生になるための十分な力がつくでしょうか。私にはそれは難しいように思えました。(続く)