松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

過剰な経験志向と人事異動信仰

はじめに

一般に,大学職員も含めた行政的組織の総合職では,いくつかの部門を定期的に「回す」,いわゆる人事異動が行われているものと思う。
もちろんこの前提は,「人事異動によって経験を得ることが,仕事にとってプラスである」ことにある。
しかしながら,自分は基本的に,この論に懐疑的である。
理由は以下の3点である。

(1)「経験」の内実が「所属」である

ある部門の経験がある,とか,ない,とか言ったときに,その経験の中身は「所属」である。
つまり,評価されているのは仕事の内容ではなく,制度的な外形特性である。
これは,部門内に切り分けられている「業務」単位に細分化したとしても同じである。
たとえば,学生課において奨学金業務を担当した,課外活動業務を担当した,というのは,「所属」と同じ「業務」という外形特性である。
しかしながら,真に重要なのは外形特性ではなく,「どのように」「なぜ」仕事を行うか,といった内的特性である。

(2)時間の差分が考慮されていない

人事異動は,当然以下のように時間的な差が生まれる。
 2010年 学生課
 2015年 財務課
 2020年 学生課
さて,このとき,2020年に学生課に戻った職員は,「経験」を評価されたかもしれないが,果たして5年前の「経験」は役に立つであろうか。
おそらく,役に立つこともあるし,立たないこともあるだろう。
しかし基本的には環境や状況は変わっているであろうから,やはり役立つとすれば,「どのように」「なぜ」といった内的特性であろう。
これは「所属」にかかわらず,その人がもっている特徴であると思われる。
少なくとも,外的特性としての「所属」を評価するならば,時間的経過によって,各部門において環境や状況がどの程度変動しうるのか,その差異を前提として人事異動をさせねばならないだろう。
ひょっとしたら,時間的変動の影響を受けやすい部門と,そうでない部門があるかもしれないが,そのような差異は現在ほとんど考慮されておらず,黙示的に等価とみなされていることだろう。

(3)「経験」主義では,難問には立ち向かえない

人間と動物の違いは何であろうか。
それは,想像力があるかないかである。これには思いやりも含まれる。
やや極論になるが,我々はなぜ,まったく知らない国の戦争に心を痛めることができるのだろうか。
それは想像力で現実を補完しているからである。
「経験」しなければできないというのは,動物に近い発想である。
人間としての賢さをもつならば,想像力やそれを下支えする学びで,現実を補完しなければならない。
この能力は,「経験」と同じか,それよりも大きな影響を及ぼすだろう。


ではなぜこのような,過剰ともいうべき経験志向が支持されるのだろうか。
自身の仮説は,「年齢給と相性がいいから」というものである。
すなわち,(1)「経験」を「所属」とみなし,(2)時間の差分を捨象し,(3)「経験」主義神話を維持することによって,年齢給を成立させているのである。
shinnji28.hatenablog.com
さて,以上のように,つらつらと過剰な経験志向やそれを前提とした人事異動を批判してきたわけであるが,現在,大学職員の人事異動が正の効果をもたらすことを仮説とした実証研究が進みつつある*1
上記はあくまでも随想であって,データに裏付けられた検証では当然ない。
自身の仮説がどのように批判されたり,あるいは裏付けられたりするのか,楽しみに過ごしているところである。