松宮慎治の憂鬱

タイトルは友人が考えたもので,某アニメのことはわかりません。

マーチン・トロウ(喜多村和之監訳)(2000)『高度情報社会の大学』(玉川大学出版部)を読了

標記の本を読了した。以下の本の後継書である。
shinnji28.hatenablog.com

第1章ではまず,高等教育システムの多様性と低学力学生への対応について概説する。
前者については,マス型高等教育の成熟プロセスと多様性の国際比較を行っている。
具体的には,多様性に対して抑制的・制限的なヨーロッパと,そうでない米国について,学問レベルの基準の有無や市場メカニズムを許容するかどうかという文化の違いを基点に切る。
ただし,ヨーロッパについてもいずれ開放に向かうことを予測する。
後者については,補習教育の問題として,誰が教えるのかということと,コスト増,および大学と中等学校との関係の難しさを問題点として指摘する。
第2章では,マスからユニバーサルの変化について,情報技術によって(インフラへの投資増があり,実験が失敗する可能性を政府が受け入れるかというと難しいという限界は示しつつも)ユニバーサルアクセス(万人参加)が達成される予感を示す。
p.137では「2025年までの高等教育」として将来予測が示されており,たとえば大学だけが研究活動を独占的に推進する余地はなくなるであろうこと,情報技術の発展によって遠隔地と結んだ教育が発展するだろうが,それでも人は施設に足を運ぶであろうこと,また文化的制度的な平準化が進めば,中身や本質は同じで,飾りや化粧など細部だけの違いになってきてしまうこと等が描かれる。
第3章では,大学評価とランキング,および説明責任について概説する。なぜ評価に関心が集まるのか,なぜ長い歴史の中で,外部評価がなくとも大学が威信を高められたのか。
これらの疑問とともに,大学評価の類型――評価の発生源(内部-外部)と,評価の機能(支援-価値決定)によるマトリクス――を示す。
また,ランキングや評価の問題点として,地位には客観・主観という複数の次元があることや,適格認定と信頼との関係において,「信頼の代替物としての説明責任」ゆえに,説明責任は自律性と相克する,すなわち説明責任を厳しくすればするほど外部に明らかにできることは少なくなること,法律や財政上の説明責任と学術上の説明責任を区別する必要があること等を指摘する。
第4章では,高等教育研究や大学教授職研究への期待と展望を中心に,講演録の一部が収録されている。
最後に掲載されているのが,喜多村先生によるトロウモデルの解説である。
ここでは,トロウの言うユニバーサルモデルと,日本で言及する「大学全入時代」はタームの用いられ方が違うことが指摘されている。
トロウのユニバーサルモデルは,学齢人口の全員が大学に入学できることを指すのではなく,あくまでも生涯にわたって人が学び続ける(何度でも大学に出入りするという)ユニバーサルアクセスであるというのである。

本書に通底しているのは,執筆当時の世相を反映して,情報革命への期待であろう(タイトルにもそれが表れている)。
しかし,現代に生きる我々はその結果を検証できるので,検証しながら読むと面白いだろう。2025年の予測等も,我々にとっては目と鼻の先である。
また,第1章を読んで思い出したのは,レヴィ・ダニエルによる論稿「私学高等教育が多様化をもたらさないとき」*1である。
レヴィは,高等教育機関の多様化を検討する視点として,同型化概念の援用を提案している。同型化は新制度派組織論の主要概念であり,近代的な組織では組織同士の大規模な均質化がもたらされるとするものである。
特に私学高等教育機関において同型化があまり援用されないことを指摘し,その可能性を示唆している。
さらに,多様性を失わせ,同型化を起こす一つの手段としての公的資金提供の役割に言及し,警鐘を鳴らしている。
多様性概念はなんとなくマジックワード的な感じがしてあまり触れたくないのだが,やはりしばしば思い出してしまう。

高度情報社会の大学―マスからユニバーサルへ

高度情報社会の大学―マスからユニバーサルへ

*1:Levy, Daniel C., 1999, “When private higher education does not bring organizational diversity” Altbach Philip G.ed., Private Prometheus : private higher education and development in the 21st century , Westport: Greenwood Press(=2004, 森利枝訳, 「私学高等教育が多様化をもたらさないとき」『私学高等教育の潮流』玉川大学出版部.)