松宮慎治の憂鬱

タイトルは友人が考えたもので,某アニメのことはわかりません。

ブログをしていると自己紹介が省略できる。が……

ブログをしていると自己紹介を省略できるというメリットがある。
これは,サッカー選手が自分の特徴を映像に編集し,色々なチームに情報として提供し,自身を売り込むことに少し似ている。
たくさんの人と一緒に働くときに,自分のことを1から理解してもらう時間を確保するのは難しい。
これが学生時代であれば,「クラス」や「コース」を単位として,1年くらいかけて理解してもらうことは可能だった。
だが働く身の上ではそれは無理である。単純に時間がない。
にもかかわらず,働く上では学生の頃よりもずっと,自分を理解してもらうことは重要である。
その人のプレースタイルがわかって始めて,使いどころがわかるからである。
ブログをしていることは,この葛藤を解消する一つの手段になりうる。
文は人なり」とはよく言ったもので,文章は良くも悪くも人間性をごまかしにくい。
そして今の時代,知り合った当初,多くの人は名前を検索して個人を理解しようとする*1
したがって,ほとんど時間をかけず,自分という人間を理解してもらうことが可能である。

一方,デメリットもある。
この手法は,自分を商品として売っていくような面がある。
それゆえ,本来の自分*2と,他人から見た自分が乖離しているように感じ始める。
人から観察されたイメージと,自己認識の乖離が大きくなるのは苦しいし消耗する。
文章に人間性がにじみ出てくるのは事実だと思うが,それでも文章だけで人間の全てが説明できるわけもない。
それに,人格的交流という意味では,互いの情報が0の状態から双方向に時間をかけることにも意味がある。
情報が非対称で,自己開示は100,他方で相手のことはほとんど知らないという状態からのスタートは,交流する前に先入観を与えすぎる。
加えて,自分のように積極的に氏名を公表することは勧められない。
なぜなら,氏名公表のカードは一度切ると二度と戻せないからである。
「どうせいつか死ぬし,いいや」と諦めているが,実名カードを切って得られるメリットは,デメリットに比べて大幅に少ない。
事実,ちきりん氏や藤沢数希氏等,いくら有名になっても実名を公表しない方もいる。
それは,実名を公表しても得られる果実が少なすぎるからである。
周囲の誰にも知られていない自分という存在を評して,浅田次郎は「任意のひとり」と呼び,「任意のひとり」になれるから旅が好きなのだ,と言った。
少しずつ,「任意のひとり」になるのが難しくなってきたし,それが自分の希望であったかというと,そうではない。
できれば自宅で本を読んだり映画を見たりして,静かに暮らして人生を終えたい。

*1:自分の名前がオフィシャルに出たとき,このブログのアクセスが上昇するので,初めてその人と遭遇したとき,まず名前を検索する人が多いのだろうなと思っている。

*2:「本来の自分」など存在しない,と言われればそれまでだが。