松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

トッド・ローズ著・小坂恵理訳『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』(早川書房)に関するもう少し詳細なレビュー

昨日取り上げた本書について,大学院の課題で使っていただいたので,そのために自身が作成したレジュメの内容を以下に転記する。

1.本日の課題

  以下の文献を購読し,自身の研究への示唆を得る。
トッド・ローズ著・小坂恵理訳『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』(早川書房
「はじめに」「第一章:平均の発明」「第八章:高等教育に平均はいらない」「第九章:機会均等の解釈を見直す」

2.内容

 「はじめに」では,平均というのは「隠れた暴君」であって,「平均的な人間」などどこにも存在しないという問題提起を行っている。そのことのわかりやすい事例として,パイロットの人体と女性の体型という2つを挙げている。つまり,平均的なパイロットや典型的な女性の体型を探求するという試みにおいて,最終的な結論が「そんな人間は存在しない」であった,というのである。そして筆者が問題にしているのは,「平均的な人間は誰もいない」にも関わらず,我々の社会制度ではきわめて多くの機会(学校,就職から,クレジットの信用度まで)に「平均」が用いられていることである。妥当性が疑われるにもかかわらず,人々の内面には深く刻まれてしまっているということを問題提起している。
 「第一章・平均の発明」では,天文学をルーツとして平均が発明されたことが描写されている。具体的には,個々の天文学者の測定値にはバラつきがあるので,平均値によって真の値を正確に予測しようとしたというのである。これと同じ発想を人間に援用したのがケトレーであった。ケトレーは,「個々の人間は誤差を伴うが、平均的な人間は真の人間の象徴だと宣言したのである」(p.43)。このような平均的な人間をケトレーは,今日とは異なり,完璧そのものの「平均人」と考えた。すなわち,「平均人」は理想の姿であったのである。このためケトレーは,「平均人」の素顔を探るためにあらゆるデータを探索し,ケトレー指数(今でいうBMI)を開発したのである。この「平均人」というアイディアは,人々の,人間を単純にタイプ分けしたいという衝動を正当化することとなった。たとえば,「タイプAのパーソナリティ」「神経過敏なタイプ」「うるさい上司」「リーダーシップ」等の分類である。このケトレーの研究を境に,「平均の時代」が幕を開けたとされる。「平均は正常で、個人は間違っているという図式が定着し、さまざまなステレオタイプの妥当性が科学によって裏付けられた」(p.47)。「平均人」を万能とみなす価値観を今日の状態,すなわち平均値からの距離によって,有能・無能を区別する形にアップデートしたのがゴルトンである。ゴルトンは平均値との差をエラーではなくランクとして捉えたことにより,価値観を修正した。
 「第八章・高等教育に平均はいらない」では,新たな高等教育の未来が提案されている。具体的には,(1)ディプロマではなく,資格証明書を与える(2)成績ではなくコンピテンシーを評価する(3)教育の経路を学生に決定させる,の3つであり,部分的には既に実行されつつあることが示されている。「学生は教育に関してもっと多くの選択肢を持つべきで,その選択肢はひとつの大学ではなく複数の大学から提供されなければならない」(p.224)からである。
 「第九章・機会均等の解釈を見直す」では,機会の平等をとらえなおす視点が提起されている。従来のモデルであれば,機会はアクセスの平等であった。これは,同じ経験に誰もがアクセスできることを目指す価値観である。しかしこの価値観には,アクセスできるシステムの標準化と,それにアプローチする個人の機会が平均的に最大化されてしまうという欠点がある。このため,そのシステムが個人にフィットするかどうかが評価しえない(=フィットすれば機会が生まれる,という発想が捨象されている)としている。

3.コメント

 まずフェアに言及しておかなければいけないことは,筆者は平均思考には良い部分もあると言っていることである。p.23において,「たとえばチリ人のパイロットとフランス人のパイロットの実績を個人的に比べるのではなく,集団として比較する際には,平均が役に立つ」としている。
 その上で論点になりうるのは,以下の3つであると考える。
(1)平均思考は,本当に役に立たないのか?
 筆者の指摘は,平均思考が多くの場合役に立たないということである。しかし筆者自身も述べているように,そうであるにもかかわらず,平均思考が多くの場面で用いられてきた(いる)。この状態について,「科学的虚構にすぎず、想像力が誤って誘導された結果にほかならない」(p.24)という言葉で説明可能だろうか。たしかに本書ではさまざまな実証研究を引用しつつ,平均思考が誤謬に過ぎないことが示されている。だが,現実に多くの場面で用いられていることの要因を,人々の想像力の誤りに付すのは説明力に欠けるのではないか。なぜ,本当は役に立たないにもかかわらず多くの場面で用いられるのか。そのことの説明の過程で,「やはり役に立たない」ことも実証される必要がある。
(2)コストは誰が,どのように負担するのか?
 平均思考が役に立たないとしたときに,個人にフィットする仕組みに焦点を当てるべきだという意見には賛成する。しかし本書では,そのコストを誰が,どのように負担するのかという処方箋が示されていない。普通に考えれば,個人にフィットしたシステムは平均にフィットしたシステムよりもコストを費やすだろう。このため,実はそうではなく,個人にフィットしたシステムの方がコストの安いことや,コストの高い個人にフィットしたシステムを採用してもなお,社会経済的便益が高くなるという証明が必要である。
(3)「分布」の視点が捨象されているのでは?
 本書では,「(集団)平均」か「個人」という二項対立で論が進められているが,ここに第3の軸として「分布」を加える必要があるのではないか。本書で言及されている「平均」は,平均値との差を人間のランクであるとする研究を引用しているように,無自覚に正規分布を仮定しているように見受けられる。しかしながら,平均値(に限らない基礎統計量)を考えるときに「分布」がどうなっているかは重要なことで,「分布」の視点を捨象して議論することは本来難しい。
 以上3つの論点を踏まえて本書の感想を述べると,たしかに無意識のうちの「平均思考」は我々のうちに存在し,ある意味では毒されていることに気づかされたと言える。その一方で,「(集団)平均」と「個人」の2軸の対立はわかりやすいが,果たして本当に成立するのかという疑問がある。(3)で述べたような分布の問題もあるし,たとえばAという個人の成績の推移を確認したパネルデータの平均は,「(個人)平均」として有益であろう。また,データそのものが,「集団」「個人」という二層ではなく,マルチレベルで存在していることを考えると,平均の有用性もレベル別で異なると考えられる。まとめると,新たな問題提起を行った書としてはセンセーショナルで,かつわかりやすいという素晴らしさがある。ただ,この書が真に価値をもたらすのは,「平均」を用いるべきでないときに「平均」が用いられてしまっているとき(そしてそのことにこれまでの価値観からそのことに気づきにくいとき)であろう。平均思考を捨てるべきか否かというのは,既述のようにケース・バイ・ケースであるとしか言いようがないと思われる。


平均思考は捨てなさい

平均思考は捨てなさい