松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

今日は久々に学生と長く話した

今日は定時後に久々に学生と長く話した。
というのも、明日が神戸市と兵庫県の教員採用試験の一次試験だったからである。
その後思い立って、まずは現役の4年次生に対してポータルで応援のメッセージを送り、その後過去3年間の卒業生全員に同様のことを行なったあと、若干でも連絡のある学生には個別で激励の連絡をした。
今日はひょっとすると月末の金曜日で、プレミアムフライデーなるものなのかもしれないが、このようなことであれば夜遅くなっても気にならない。

たまにこのようなことをすると、つい最近の卒業生であってもずいぶん時間がたったような気持ちになる。
しかし、よくよくカウントしてみると2年程度だったりして、まだそれだけしか経っていないのかと驚くことがある。
年をとると時間の経ち方が早くなるというから、そうではなくて遅く感じるというのは、良いことなのだろう。
一方、書類仕事、学内調整のしごと、行政の仕事、遺漏なく、上手に、みたいな自分の普段の時間の使い方に、疑問も覚える。
果たしてこれは正しい時間の使い方なのかということである。
ぼくは、学生とじっくり話すときはこちらから切らないようにしていて、本人が満足するまで「話し切る」ようにしている。
カウンセリングの研修等では、時間を区切ることが推奨されるが、ぼくはカウンセラーではない。
カウンセリングを受けたいならカウンセリングルームに行けばいいのである。
またその際、いわゆる「指導」のようなことはしない。
教員ではない事務職員が学生と接する際の、最大の強みがフラットさであり、良し悪しの評価を行わないことにあると思うからである。
そして、そのように「話し切る」ためには、時間に余裕が必要だ。できれば、区切られることのない時間が。
だが自分の普段の仕事は、常に区切られている。
スケジュールアプリは色鮮やかな予定でいっぱいであり、メールには即レスをし、一瞬一瞬で判断を求められ、そしてそのこと自体(高いクオリティの仕事をハイスピードで行っているという自己認識)がある種の快感になってしまう。
学生を伸ばすというのは、本来そのような思考回路では成立しない。だが環境要因はそれを許さない。
学生と話しながら、常にそのような問いが自分の頭を巡った。
自分の時間使い方は、正しいのか。おそらく間違っているのではないか。

実は今週末、過去に、具体的には25歳前後のときにボランティアに一緒に行った卒業生と食事に行く約束がある。非常にありがたいことである。
今度は彼らが25歳くらいになっており、驚きを実感する機会が与えられる、そうした時間の巡らせ方が自分には合っているし、よりこの仕事の本質的な部分ではないかと思う。